同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— イエスの復活 —


「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ 20:24-31)

 今年は4月21日(日)がイースターです。
 この記事が書かれたために、トマスがイエスの復活を疑ったことがクローズアップされましたが、その少し前には弟子たち皆が、イエスが復活されるとは信じていなかったのでした。

ジェームズ・ストーカーはこう解説しています。
「・・・弟子たちは一緒に集まって「彼らは泣き悲しんだ」のであった。しかし今、私たちは彼らがそのように悲しんだことを喜ぶことができる。彼らは私たちが信じるために疑ったのである。・・」(本誌221号掲載、「キリスト伝」から)
そして、イエスの復活こそが失望していた弟子たちを変貌させ、キリスト教を誕生させたのであるとしています。
 皆さんも救いの恵に与った後には、イエスの復活を疑うことはないでしょう。

 今回引用したみことばの最後の部分に、ヨハネは「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」といっていますが、彼はどのようなことを書いて、私たちがイエスを信じることができるようにしたのか、ヨハネの福音書から考えたいと思います。

 メリル・テニーはその著「ヨハネの福音書」に、ヨハネはイエスが神の子、キリストであることを示した「しるし」として、次の7項目を書いたと述べています。解釈はいろいろあるでしょうが、参考にはなりますので項目だけ列記しますと、

・水をぶどう酒に変えられたこと(2:1-11)
 (物の)質を支配される方

・役人の子どもを癒やされたこと(4:46-54)
 距離、あるいは空間を支配される方
(距離に遮られずに遠方の病人を癒やされた。)

・病人を癒やされたこと(5:1-9)
 時を支配される方
 (38年もの長く病気であった人を癒やされたことを、テニーはそのように解釈しました。)

・五千人を養われたこと(6:1-14)
 (物の)量を支配される方

・水の上を歩かれたこと(6:16-21)
 自然法則を支配される方

・盲目に生まれた人を癒やされたこと(9:1-41)
 (人の)不幸をも支配される方

・ラザロのよみがえり(11:1-46)
 死をも支配される方

 ヨハネが、この福音書のはじめに書いたことに注目しましょう。彼がイエスのことを述べていることは明らかです。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(1:1-3)

この文には以下のことが書かれています。
・イエスは神であり、神と共におられた。
・イエスは万物の存在する以前からおられた。
・万物はイエスによって創造された。

 イエスはご自分のことを知っておられました。
「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」」(8:58)
 イエスはご自分が「先在者」であることを知っておられました。

「わたしを見た者は、父(神)を見たのです。」(14:9)
 イエスはご自分が神の顕現(一体)であることを主張しておられるのです。

「それとも、わたしが父にお願いして、12軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。」(マタイ 26:53)
 イエスはご自分で天使に命令を下す権威を持っておられることをご存じでした。
しかし、地上の生涯の間は、すべてのことを父に祈り父の権威で行われました。

 私は、イエスは完全な人(人間の領域を越えない普通の人)であることを主張してきましたが、イエスがキリストであることが立証され、私たちがそれを信じることができるようにされなければなりませんでした。
 イエスは、決して人の領域を越えられなかったのですが、この問題を解決したのは「聖霊」です。

 イエスがなされた「しるし」は聖霊がなされたのです。父なる神とイエスが一つであるのと同様に、イエスと聖霊はひとつなのです。
 イエスがキリストであることを証明している最大の「しるし」は「復活」です。
イエスの復活は弟子たちの変貌によって証明されました。
ですから、ジェームズ・ストーカーとともに、「弟子たちが疑ったことを喜ぶ」ことにしましょう。弟子たちが、本当に復活したイエスにお会いしなければ、彼らは変わることができませんでした。
 イエスの体にもういちど香油を塗ろうと思ってでかけた、女たちはイエスの墓の入り口を閉じた石が取りのけられているのをみました。
敵対するひとびとは、死体を盗まれないように番兵をおくほどであって、彼らが入口の石を取りのけるということは決してありませんでした。 イエスの亡骸がないという女たちの報告をきいて駆けつけたのは、ペテロとヨハネ(名前が書かれていませんがそう信じて疑わなくてよいでしょう)でした。
ヨハネは、イエスの体を包んだ布がそのままの形であり、頭に巻かれた布が巻かれた形のまますこし離れたところにあったとのべ、それをみて彼は(イエスの復活を)「信じた」と記しています。
イエスの頭に巻かれた布をほどいたら、巻かれたままの形に戻すことは不可能なのです。
 復活のイエスに最初にお会いしたのはマグダラのマリヤでした。
「主にお会いしました」と報告したマリヤを弟子たちはまだ信じませんでした。
イエスは彼らにご自分の復活した姿を見せる必要がありました。
トマスが信じなかったことも、エマオに行く道すがらイエスにお会いした弟子たちのことも私たちは喜びましょう。
 イエスは、
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(マタイ 28:20)と約束してくださいました。
イエスを拝して、マリヤのように「ラボニ」と言わせていただきましょう。