同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく (34) —


「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息に入るのです。」(ヘブル 4:1-3)


 「キリストの平和(平安)」が神に近づく人に与えられる大切な徴であることを述べました。
 ヘブル人への手紙はこのことについてよい示唆を与えてくれます。ヘブル人への手紙の中心主題は、「大祭司である御子イエス」ですが、イエスは人が神に近づく道となってくださり、それを助けて下さるのです。そして神に近づく人には「キリストの平和(平安)」が与えられます。
 冒頭に掲げたみことばの前に、この平安に入れなかった人々の例が引用されて、あなたがたもそうならないようにしなさいと警告がなされています。誰に対してその警告が語られているかと言いますと、
「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。」(ヘブル 3:1)
に対してです。つまり、イエスを信じてクリスチャンになった私たちが警告されているのです。そして、こうならないようにしなさいと、その実例として引用されているのが、エジプトから救出されたイスラエルの人々です。
「「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」 と言われているからです。 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」(ヘブル 3:15-19)

モーセの働きを通して、エジプトから救出された人々であることがこころにとまるでしょう。私たちはさらに、この荒野で屍を晒した人々の子どもたちがヨシュアに率いられて、約束の地に入ったことを知っています。しかしヘブル人への手紙の記者はこう付け加えます。
「もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。」 (ヘブル 4:8)
つまり、ヨシュアも後に起こることの型となっただけで、本物の平安を与えはしなかったと述べています。それで神は、ダビデを用いて語っておられます。
「神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」 と語られたのです。」(ヘブル 4:7)
「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。」(ヘブル 4:9)
ヘブル人への手紙の記者は、この安息に入るようにと、私たちに強く求めています。
つづいて書かれている記事を、よくこころに留める必要があります。

「ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
(ヘブル 4:11-16)

安息に関する議論に続いて、私たちの弱さに同情できるお方である大祭司イエスがおられるのだから、大胆に恵みの御座に近づいて、安息をいただきなさいと奨励しています。
クリスチャンのつもりでも、救いの経験をしたことがない、罪の赦しも新生のいのちも知らない人々、信仰も教会も趣味程度でしかない人々は脇において、真剣に信仰を自分の人生そのものとしている方々で、なおこの安息を知らない方々への勧めです。既にそれに生きている方々は、「我が意を得たり。」と思って下さい。