同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく (41) —


「しかし、彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行い、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。」(イザヤ書 58:2)

 
 冒頭のみことば、イザヤ書58章2節だけ読むと、彼ら=イスラエルは神に近づくことを望んでいる素晴らしいひとびとになったように感じます。
ところが、このイザヤ書58章の続きを読むと、残念、彼らは神にこう訴えます。
「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」(58:3)

それに神の答えが続きます。
「見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ちつけるためだ。
あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない。わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。
わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。 飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。」(58:3-8)

神は彼らがそのようにするなら、こうしてあげようと約束を付け加えます。
「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる。」(58:8-9)

そして神はもう一つすすめを言われます。
「もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、 飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、・・」 (58:9-10)

神のお約束が続きます。
「あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。」 (58:10-11)

 聖書を読むとき、恵のみことばだけに目を留め、その恵を頂くためには神の条件がついていることを見落としていませんか。
このイザヤ書58章では、
「あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる。」(58:8-9)
「あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。」 (58:10-11)
だけを読むというようにです。

私たちのよく知っているイエスのみことばを引用しましょう。
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」
(マタイ 10:37-39)

信仰生活には十字架があることが説かれず、「信じるとこういう恵をいただけます。」ということだけが説かれるきらいがありませんか。
神に近づくものに神はまちがいなく恵をくださいますが、その道は先に述べた通り、「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」ことの中にあります。