同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく (37) —


「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。」(マタイ 6:1)
「こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。 彼らのしていることはみな、人に見せるためです。」(マタイ 23:2-5)

神に近づくことを許される人の持っていなければならい要件としてまず「へりくだること」を取り上げましたが、おなじように重要な事があります。それは「真実であること」です。それは先に一緒に述べたことですが「あるがままの自分」で神の前に立つことと「へりくだる」こととは切り離すことができません。
 何を着たら、どう話したら、どう振る舞ったら、・・彼(彼女)によく思われるだろうか?などという記事は、テレビ番組に、に雑誌に、インターネットにあふれています。それは「演出」であって、本人がどういう人物であるか問わないのです。故山本岩次郎牧師はその「演出」ということを非常に嫌いました。その理由はインマヌエル教団創立のときのできごとにあって、中身は省略しますが、私はその内容をご本人から直接ききました。私が今の教会に導かれてまもなくのこと、ある年上の兄弟がこういっていました。「役者はダメなんだそうだ。山本先生(岩次郎牧師)が力説しておられた」と。山本先生の矢は自分に向いていることに気づかず、彼はその真意を全然理解していないようでした。山本先生が力説したのは、自分を、真実の自分以外のものであるように「演出」するな、ということでした。
 イエス・キリストはパリサイ人たちを嫌いました。パリサイ人たちの行動は、「人に見せるために」つまり「動機」が不真実なのです。それで「あなた方は白く塗った墓だ。外側は美しくても、中は腐った汚物で一杯だ。」とイエスが言われたことがぴったり当てはまってしまいます。
 ジェファーソンは、彼の著書「イエスの品性」の中で、この「真実」について以下のように解説しています。
「・・・すべての徳は美しいが、あるものは他のものに比べて一層優れた美しさを有している。 すべての徳は大切であるが、その中のあるものは他のものに比べて一層欠くことのできないものである。それが欠如すると品性がぼろくずのようでみすぼらしいものになる徳があり、他のものにそれが欠如すると魂の抜け殻となるものがある。ある徳はほんの飾りに過ぎないが、明らかに基本的に重要なものがある。前者が見いだされなくても建物は完全ではないという程度であるが、しかしもし後者が存在しなかったならすべての建物は崩壊して廃墟と化す。真実はそのように重要な徳である。
・・・
(この世では)不真実はいかに当たり前であることか。欺き、不正直、その他あらゆる種類の偽りに満ちている、なんと悲しむべき古い虚偽の世界に私たちは生きていることか。社会は虚栄によって呪われており、商取引は不正直の蜂の巣であり、政治の世界は二枚舌と逃げ口上豊かである。いたるところ、いんちきと虚偽とごまかしがある。あるものは自分にも理解できないほどの大言壮語する、そしてあるものは彼らが持っていない知識を吹聴する、またあるものは支払うことの出来ないほど着飾って行進する。多くの男女の生活そのものが膨大なうそなのである。私たちは自分が心に思ってもいないことを言い、私たちが感じていない感動を表現し、私たちが密かに非難しているものを賞賛し、心のうちで眉をひそめつつも微笑み、実際は呪わしく思っているときにお世辞を言う。週に百遍も、人々に自分を自分以上のものに見せようと努力する。詐欺の手段で金銭を得ると牢獄行きであるので、私たちはそれを注意深く避けるのである。
 しかし、いかに多くの他のものを、偽りと見せかけで得ることか。それには懲罰がないからであるが、あなたがたは全能の神がお咎めにならないと思われるか?
・・・
しかしこれ(真実であること)は、私たちすべてが到達することのできるものである。・・・私たちは、私たちの心が真実であるよう神に絶えず祈るべきである。あなたがたは真実の最も好ましい姿をみたいならば、イエスのところに来なさい。ここに偽りを言うことのできない人がいる。
 彼(イエス)にとって虚偽ほど嫌いなものはない。本当の自分ではないものを装う人ほど彼の怒りを引き起こしたものはいない。最も嫌悪すべきものとして彼の唇に登ったことばは「偽善者」であった。
・・・」
 このジェファーソンの著書の一節を読んだだけで、自分を自分以外の姿に見せかけて神に近づくことなど到底あり得ないことを理解できます。

 讃美歌を思い出しましょう。


・ すべてありのまま つゆだに飾らず
 み声のまにまに 我ゆかん我ゆかん

・ あまりにしみもて 汚れし身なれど
 血潮を見上げて 我ゆかん我ゆかん

・ 疑い恐れに 心は動けど
 主の手にまかせて 我ゆかん我ゆかん

・ 罪とが赦して 必ず受けんとの
 御言葉握りて 我ゆかん我ゆかん

・ はかりも知られぬ 愛もてとかされ
 すべてを献げて 我ゆかん我ゆかん

「我ゆかん」とはどこにゆくのですか?
イエスに近づいてゆくのです。