同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく (40) —


「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ 12:2)

 「世」について、もう少し考察して見ましょう。

 「調子を合わせる」というのは音楽に関することで、リズム、テンポを合わせる、旋律がハモルように一緒に演奏している人に合わせることです。
この世の音色とハモっているとはどういうことでしょうか。実は微妙な力関係があって、もし私たちが世に合わせるのであるとすると、世の方が強く自分の方が弱いのです。
それで「相手に気に入ってもらうために、相手に迎合する。」のであって、これは世に負けている姿です。

蛇足ですが、「調子のいいやつだ!」というのは、その迎合することに巧みな人物だということです。

イエスは最後の晩餐のときにこう言われました。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ 16:33)
弟子のヨハネも後にこう記しました。
「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」(ヨハネⅠ 5:1-4)

この世に負けている人が、この世と調子を合わせ、この世に勝っている人はそのようなことはしません。

 聖書に書かれていいる「世」ということばは、私たちが普通に使っている「世界」とか「世の中」という意味で使われている場合と、サタンが支配する闇の世界、神に敵対する世界を示している場合があります。聖書を読むときにその書かれている意図を読み誤らないすることが必要です。

聖書に「世」について書かれている箇所を拾い上げてみましょう。


<普通の世界という意味>
「箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。」(創世記 9:18-19)
「ダビデの死ぬ日が近づいたとき、彼は息子のソロモンに次のように言いつけた。「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。強く、男らしくありなさい。・・・」」(列王記Ⅰ 2:1-2)

・世界は、イエス・キリストが創造され、保持されているものです。
「この方(イエス)はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」(ヨハネ 1:10)
「神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」(ヘブル 1:2-3)

・世には時間スケールがあり、「はじめ」があり「終わり」があります。
「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」(マタイ 13:35)
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ 28:20)

・今の世界と、後に来る世界があります。
「イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」」 (ルカ 18:29-30)
「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」(エペソ 1:21)


<サタンの支配する闇の世界>
 いつからそうなったかは分かりませんが、世界は今はまだサタンの支配下にあります。
イエスが荒野で試みあわれたとき、サタンはイエスに全世界を見せ、それは私に任されていると言い、イエスはそれに反論されませんでした。
「十日間、悪魔の試みに会われた。・・・ また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、 こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」」(ルカ 4:1-7)

パウロはこう説明しています。
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」(エペソ 2:1-2)
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ 6:12)

・この世に属する事柄と福音に相応しい事柄があります。
「キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」(ピリピ 1:27)
「あなたがたを神の国にふさわしい者とするため・・」(テサロニケⅡ 1:5)
この私たちに求められている「ふさわしさ」は神に、キリストに、聖徒に、・・とたくさんのことについて述べられています。

 私たちが「キリストと共に死ぬ」とは、「生まれつきの自分自身と闇の世界に対して死ぬ」ことであり、「キリストと共に生きる」とは、「キリストにあって、新生のいのちに生きること、聖霊によって歩む」ことにほかなりません。

 先に「生まれつきのもののなかにも、神に喜んでいただけるものがある」ことを述べていますが、それはキリストと共に死に、キリストと共に生きることが私たちに実現して、そうなるのです。