同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく (36) —


「イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、 言った。「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」」(マタイ 8:5-10))

神に近づくことが許される人のもっていなければならい要件がいくつかあります。その先頭にくる事柄は、「へりくだること」です。先に私の救われた日のことをお証ししました。ここにもう一度それを引用してみましょう。

・・・  救いに与る前、私は自分が「自分は汚れた者、聖い神の集会に座るのに相応しくない者」であると分かりました。
ですから、神に近づくために集会に行こうと思ったとき、それは困難なことでした。「まして天にいます汝らの父は、求むる者に善き物を賜はざらんや」(マタイ 7:11)
というみことばがなんと助けになったことでしょう。
そのとき私は既に洗礼も受け、盛岡の教会の会員でしたから、集会にでるためにはこの仙台の教会に転会させていただく必要があると思い、先生のもとに行き、「<集会に相応しい者ではありませんけれど>転会し集会に出席させていただきたい」とお願いしました。
先生は承知してくださり、「汝ら我を選びしにあらず、我なんじらを選べり」(ヨハネ 15:16)を引用して祈ってくださいました。
帰り道、こころ軽く、本当に足まで軽いようでした。
・・・

そのときの自分のこころの内を今もありありと記憶しています。救いのはじめの日に、「へりくだる」という学課を学ぶことができたことは幸いでした。いやへりくだることがなければ救われませんでした。
 その大切な要素は、<私はこの集会に相応しいものではありません>と自ら認めたことでした。
私たちの教会の礼拝説教でも、「自分を受け入れる」という表現で語られたことがあります。あるがままの自分、その通り、真実にそうである自分を、自分で神の前に受け入れているということです。
 自分がどういうものであるか、その判断を誤る心配がありますが、「こころに知れる限りの真実さ」で、神は許容されることでしょう。

 冒頭に掲げたみことばは、私たちのよく知っている、ローマ軍の百人隊長に関する記事です。
彼は軍人であって、決して自分を卑下しているわけではありません。「私は権威(皇帝)の下にある者です」と自らの地位を述べています。
しかし彼は自分が異邦人であるという「神がお決めになったことを」受け入れていました。
「あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」と。

 この百人隊長について、自分の下僕をも愛してその病気のために労をいとわない姿や、ユダヤ人の長老たちが一緒にイエスのもとにやってきて、「この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」(ルカ 7:5)
と証言していることから、その人柄を垣間見ることができます。

 彼はへりくだってイエスに近づき、イエスから恵みを引き出すことに成功しました。


へりくだることは、ことばとしては知っていても、それがどういうものであるか分かっていないこと、それを自らの内に持っていない心配があります。
クリスチャンの持っていなければならない霊性のはじめにくるものとして、それを深く探求させていただきましょう。