同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく (33) —


「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」(ヨハネ 14:27)
「神の国は・・、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ローマ 14:17)


 私が歩んできた信仰という視点での三段階は、はじめの救われる以前の時代をいれてのことですので、救われてからは二段階だと言っていいのですが、それが先に歩んだ信仰者たちの経験に合致するものか、書物を・・バンヤンの経験・・を通して、確かめてみました。次に、もうひとつ、讃美歌に歌われている内容を通して、考察したいと思います。
 第三の段階には注目に値するいくつかの事柄がありますが、その中で、最も重要と思われることがらのひとつは「キリストの平和(平安)」がこころにあることです。
 キリストの平和は、冒頭のみことばの通り、イエス・キリストが約束されたものです。
 イエス・キリストが宣言されている通り、それは、世が与えることのできないものです。つまり、思い込みや心理操作、この世の人々の教えること、様々な哲学や宗教に傾倒すること、あるいは飲酒や薬の類いなど体に影響するもの、富や権力、家庭つまり妻子を得ること、交友関係、スポーツや趣味の類い、いろいろありますが、このようなものは「キリストの平和」の代用品にはなりません。
 「キリストの平和」は「涙の谷」や「人生の海の嵐」と呼ばれている、人生の様々な困難の中にあっても、決して失せることのないものです。キリストを信じている者も、次のようなことに陥ることを警戒しなければなりません。それは、平安がないのに「救われているのだから、平安なはずだ」と自分で思い込もうとすることです。
同じことを他の文でも書いていますが、
「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」(エレミヤ書 6:14)
文語訳聖書では「手軽にいやし」が「浅くいやし」となっています。つまり「うわべだけいやし」という意味です。
おなじことがエレミヤ書に2回、エゼキエル書に2回書かれています。
 さて、はじめにかえって、先に歩んだ信仰者たちは、この「キリストの平和」をどのように経験していたのか、讃美歌を尋ねてみましょう。

♪心のお琴に   み歌の通えば
 調べに合わせて 歌はざらめや
   平和よ     奇しき平和よ
   み神の賜える  奇しき平和よ

 主によりて受くる 聖き平和こそ
 揺るがぬ心の   礎なれや

 主を大君とし  崇めまつろえば
 心にたたゆる  天つみ恵み

 み側にはべれば 平和は絶えず
 あだ波は立たず 心の海に
   (インマヌエル讃美歌472)

♪世の波風いかに荒れて
    我に襲い来たるとも
 イエスは我にその安きを
    与えませば恐れなし
 主の安き主の安き 我は内に今もてり
 主の安き主の安き 我は内に今もてり

 凡ての罪・悪しきくせを
    悔い改め捨てしわれ
 世のものみな主に献げし
    我はこころいとやすし

 よし悪魔はししの如く
    吠え猛るも何かあらん
 また光の使いのごと
    あざむくとも動かじな

 世の栄えも富も知恵も
    また誉れも死でさえも
 主の賜いしその安きを
    我が内より奪いえじ

 ハレルヤ主は世と悪魔に
    既に勝ちを得たまえば
 我らもまたイエスと共に
     日々勝ちえて余りあり
   (インマヌエル讃美歌236)

 讃美歌の作者たちは、自分で経験していないものを詠うでしょうか?そんな歌では、私たちの共感をよびはしません。そうなればたちまち歌われず廃れてしまうでしょう。彼らは、自分で経験していたに違いありません。

 「キリストの平和」がこころに宿る条件がこう歌われています。

♪み失せし我が主と 共に我は死に
 蘇りし主と    共に我は生く
   今は主キリスト 我にありて生く
   我は はや死ねり
    (インマヌエル讃美歌308)

 パウロはこう言います。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ 2:20)

 「キリストの平和」について、自分で行わなければならないこころの営みがあります。「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」(コロサイ 3:15)
「キリストの平和」自体は与えられるものですが、それがこころの支配者になることは私たちのこころの営みにかかっています。その秘密を獲得しましょう。