同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく (38) —


「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
・・・
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」」(ヨハネ 21:1-17)

 イエスがなぜペテロに三度、「わたしを愛しますか」と言われたのかその理由は皆さんのよく知るところでしょう。
そしてイエスの「愛しますか」という問いに、ペテロが「好きなんです」と答えていることも。
イエスはそれ以上ペテロにものを言わないで彼の答えを受け入れられました。
 「好き」ということは、「良心」と同様に人間が生まれつきもっているものです。
 私の教会の子どもたちは(大人も)先生が大好きです。日常の教会生活の中でありありですが、兄弟姉妹の文章にもたくさんでてきます。
 人は好きなひと、好きなもの、好きなことがら、・・に近づきます。
 教会の集会が好きであったら、それはもはや義務で行くのではなく、自ら進んで出席します。教会の兄姉が「いそいそと」集会に集まってきます。礼拝、祈祷会、伝道会、聖書研究会、聖会、コンサート等々、たくさんの種類の集会がありますが、どの集会もその雰囲気にあふれています。私はそれを神が大いに喜んでおられると感じます。
繰り返し述べてきたとおり集会にいって神にお会いし、神に近づくことができます。
 聖書が好きであったら、聖書を読むことでしょう。皆さんは聖書を読みますか?
「ああ聖書を読みたい」と思われますか。聖書は神の書、神が人間に与えた神の手紙だと知っておられるでしょう。
皆さんに誰か好きな人がいるとします。その人が手紙をくれたら、夢中で読まないでしょうか。
聖書日課は義務だから仕方がないと思って読んだら、さぞ面白くない聖書となることでしょう。
 聖書を通して神に近づくことができますが、神と神のことばである聖書は一体です。 まず、神と聖書を好きになりましょう。