同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく (39) —


「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ 4:4)

 前号で「好き」ということは、生まれつき持っているものであると解説しました。
生まれつきのものは神からのものでないからという理由で、それを全部否定するひともいますが、そう考えるべきではありません。
そのことは、皆さんがもしバンヤンの「聖戦」を読み内容を理解しておられたら、私の説明がよく通じると思うのですが。
バンヤンは人間の「知情意」に働く、品性、性格、人柄などには、

・生まれつきのもの
・サタンがもたらすもの
・神がもたらすもの

がありますが、その働き方の区別をみごとに書き表しています。
その中で生まれつきのものは、神の味方にもなればサタンの味方にもなることを表現しています。
 そこで大切なことは「世」という概念です。引用したヤコブのことばを見て下さい。
大切だという理由は、生まれつきのものは、簡単に「世の友」となってしまうからです。
改めて質問させていただきますが、皆さんはこのヤコブが述べている「世」という概念がおわかりですか?

♪イエスよ十字架に われをば引き
 ・・・
 十字架によりて われ世に死し
 十字架によりて 世われに死す
   君の功 ほむべきかな
   十字架の他は われ誇らじ
   ・・インマヌエル讃美歌580

また、
♪見失せし我が主と 共に我は死に
 甦りし主と 共に我は生く
  今は主キリスト 我にありて生く
  我は早 死ねり
   ・・インマヌエル讃美歌308

と、皆さんも讃美しているでしょう。
この讃美の歌詞は、
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ 2:20)
「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ローマ 6:8)
を表しています。
 神が好きです、聖書が好きです、ということが、私たちをおおいに神にちかづけてくれますが、それは持って生まれたものを用いることであって、世の友となることがすぐそばにあると考えてよいものです。
 まず、「世」と神のものをはっきり区別できるものでありましょう。