同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

「まぁ、いいか」との対峙

石井 和幸

「私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。」
(コリントII 1:12)
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
(ヨハネI 1:9)

 10月8日で、私達夫婦は結婚一周年を迎えました。神の導きと兄姉方の多くの祈りに支えられ、あっというまに過ぎた、しかし中身の濃い一年でありました。一家の長としてのルーキーイヤーを終えて、学んだことが多くありました。その一つが、生活での局面における、とっさの判断です。
 私達の教会の主任牧師である山本嘉納先生は、教会の高校生に対し、信仰生活における『勘』を豊かに養われるように教えたことがあります。また礼拝のメッセージの中でも、『有事』において神の御旨にかなう判断が出来るように、『平時』を常に信仰を持って歩む大切さ、神の御手の中に陥り続ける大切さを語られたことがあります。
 一つの事柄に対し、十分に祈りをもって備え、また神が遣わしたもう牧会者にお伺いを立てながら判断し、歩みを進めることは幸いです。私も長い時間をかけて教会の中でそれが真理であることを教わってきました。
 しかし、こうして家庭が与えられ、社会生活と共に戦いが激しくなるにつれ、その局面でとっさに責任をもった判断を迫られる時が多々でてきます。もちろんここぞという場面は牧会者とともに祈り、お伺いを立てる必要があります。ですが普段から常に、教会の中で養われてきた自らの信仰を吟味していなければならないことを覚えます。 自らの信仰、霊性を鈍らせるもの・・・私の場合は、『まぁ、いいか』という妥協です。折角、自分の良心が自らを促しても、信仰による『勘』が養われていたとしても、『まぁ・・・いいか』とまるで時間が解決するような風潮になる自らの傾向性は、今は致命的に見えなくても、それが命取りになっていくことを覚えました。場面によっては『やりすぎ』は良くありませんし、それによって不必要な疲弊が生じることは避けなければなりません。しかし、何より、神を畏れることに、『まぁ、いいか』と平然と語る自分であってはならないと、示されています。
  大変感謝なことに、10月5日、私達夫婦に娘が与えられました。神から授かった命と魂に対し、神が私達に真実を尽くして下さったように、私達も真実を尽くしていくことを覚えつつ、歩んでいきたいと思っております。
(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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