同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 「一緒に・・・」 —

森田 心

 1983年の4月23日、20歳になろうとする2ヶ月前に救いの恵みを頂きました。救われた私にとって、それまではどちらでも良かったこと、いや、あまり深く捕らえずに流されていた出来事が神の前に生きようとする時に、まだまだ荒削りの信仰者でありましたが、そのままにしておくのではなくどのように歩むべきか求めはじめたころでした。
 学生生活から社会人となり私の進もうとする環境のなかにも誘惑や壁のようなものが多くなりました。自らでは解決できない問題や、思うようにいかない苛立ちのようなものが一杯になってくると山本光明牧師の所へ行きました。連絡もせずに教会のチャイムを鳴らし「先生話を聞いてください」と、そんな突然の訪問にもいつも「さあ、どうぞ」と迎えてくださり私は、ポツリポツリと話を始めます。一通り自分の苦しさを話終えると先生は私に話をして下さいました。けれどもその話は私の訴えの答えにも解決策でもなかったようにその時の私には思えたのです。私は苦しい状況から楽になりたいとどこかに持っていたように思います。時を経て、解ってきたことは先生は私に“あなたの抱えている苦しみはあなたの十字架だ”とういことを語ってくださったのだと。その十字架をあなたは降ろして楽になることを選ぶのかと問い続けていて下さったのです。その時にはまだそのことを理解することが出来ずに平行線で結果がないように思えました。その中でも幾度も先生を訪れたわけは、今20年以上経っても忘れられない1つの言葉があったからです。先生は話の最後にいつもこう言って下さいました。「さあ、また一緒に行こう」と。この「一緒に」と言って下さった言葉はその当時わがままで自分のことしか考えていなかった者にとって、この方と一緒に神を信じて進もうと思わせてくださるものでした。
 今はもう膝を向き合わせて2時間、3時間も話をすることはありませんし、講壇からのメッセージを聞くことは出来なくなりましたが、その頃から今に至るまでそしてこれからも先生と一緒に歩みが出来る幸いを感謝いたします。

「知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである。」
(箴言3:18)

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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