同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第34回) —

野澤 睦雄

2. 旧約における三つの職務の考察(つづき)
2.2 預言者(つづき)

 預言者はその名称から、語ることに多くの関心を集めますが、その職務として忘れてはならないものに、「祈り」特に「執り成しの祈り」があります。
 旧約の人々の祈りについて数多くの記録があります。それらの祈りは「個人」の祈りと考えられやすいのですが、「預言者の職務」として祈られた祈りが多いのです。
「神は夢の中で、彼(ゲラルの王アビメレク)に仰せられた。・・あの人(アブラハム)は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。・・」(創世記 20:6、7)
 神は事を行われる前に、預言者にそれをお示しになりました。
「主はこう考えられた。『わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。』」(創世記 18:17)
それと同時に、預言者には二つのことを期待されました。そのひとつは、語ること、警鐘を鳴らすことです。
「人の子よ。あなたの民の者たちに告げて言え。わたしが一つの国に剣を送るとき、その国の民は彼らの中からひとりを選び、自分たちの見張り人とする。剣がその国に来るのを見たなら、彼は角笛を吹き鳴らし、民に警告を与えなければならない。」(エゼキエル書 33:2-3) もうひとつは、ここに取り上げている「執り成しの祈り」をすることです。
 創世記18章で、神はソドムとゴモラの滅亡を告げられました。アブラハムは、甥のロトのために必死に執り成しの祈りをしました。彼はソドム全体を滅亡から救い出すことはできませんでしたが、彼の祈りの課題であった、ロトの救出には成功しました。神は預言者アブラハムの祈りに答えられたのです。
 モーセが、シナイ山で40日の断食祈祷をし、神から十戒を頂いている間に、アロンとイスラエルの民は、金の子牛の像を造りそれをイスラエルをエジプトから連れ上った神であるとして礼拝したことが出エジプト記の32章、33章に記されています。その時神はこう言われました。
「主はまた、モーセに仰せられた。『わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。』」(出エジプト記 32:9-10)
 ソドムが滅亡したように、神の手によってイスラエルが滅ぶ危機でした。その時預言者モーセは神の前に立って執り成しをしました。神はモーセの執り成しを受け入れ、イスラエルのわざわいを思い直されました。
「しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる』と仰せられたのです。」すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。」(出エジプト記 32:11-14)
 その時神はもうひとつのことを言われました。それは、神ご自身はイスラエルと一緒に行かない、代わりに約束の地の人々を滅ぼす助けに天使を使わそう、と。
「主はモーセに仰せられた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地にここから上って行け。わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、わたしが、カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。」(出エジプト記 33:1-3)
 神がご臨在なさらないということはイスラエルが地上の他の国と同じになることを意味し、それはイスラエルがその使命を失うことでした。モーセはそのためにも神に嘆願しました。
「さて、モーセは主に申し上げた。「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ』と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、『わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と仰せになりました。今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。」すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」」(出エジプト記 33:12-14)
 モーセの神に対する訴えの論拠は、神が自分に預言者としての召命をお与えになったことにありました。私をこの務めに任じられたのは、神よ、あなたご自身ではありませんか、と。
 これまで述べて来たように、預言者は神によってその職に任じられ、神のお取り扱いによって神の人となります。それ故神は預言者を重んじ、そのことばをお聞きになります。
 新約の時代になっても、神はお変わりにはなりません。神が人の祈りを聞かれるそのあり方は、旧約の時代と同じです。旧約は、新約の予表として示されたものであって、神が今の私たちに私はこのようにすると言われているそのものだからです
 イエスがつばきでどろをこね、目に塗ってシロアムの池にいって洗いなさいと言われた盲人は、神のなさることをわきまえていました。
「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。」(ヨハネ 9:31)
 預言者は、神を敬い神のみこころを行うひとです。それが預言者に欠くことのできない要件です。
 私たちが祈る祈りは、自分のために神にみ手を動かしていただきたいという内容のことが圧倒的に多いことでしょう。しかし、もし自分のことを離れて、誰かのため、何かのために、もちろんそれは、教会の必要のためが根底にあるものですが、そのために執り成しの祈りを祈ることを志したなら、預言者に思いを馳せるべきです。そして神の前に己を正し、神を敬い神のみこころを行って、その執り成しの祈りに取り組むなら、きっと成功ある執り成し手と神はしてくださるに違いありません。
 私たちの生きている今の時代にあっては、イエス・キリストが関心を持っておられるのは教会です。教会は説教によってつくられます。万人預言者といっても、全員が語る預言者ではありません。
「もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。」(コリントI 14:30-31)
選ばれた説教者が語り、他の人は聞きます。しかし、全員ができることがあります。それは祈ることです。
 説教にもし聖霊のお働きが伴わなかったなら、それが一体何の働きをするでしょうか。ですから、説教と祈りは車の両輪のような関係であって、祈りは説教に聖霊の火を燃やすのです。
(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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