同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— クリスマスになすべきこと —

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ 1:14)
「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。(ヨハネ 4:23)

 今年もクリスマスの節季がやってきました。クリスチャンであるお互いは、この時何をすべきでしょうか。
 まず第一になさなければならないことは、静まって礼拝をすることです。
 イエス・キリストは、私たちをそれぞれの自分の罪から救うためにおいでになりました。
「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ 1:21)
そのために、栄光の位を捨てて人となられました。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ 2:6-8)
イエスが父のみ心に従順であられた故に、救いは私たちのものとなりました。
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」(マタイ 4:15-16) クリスマスにというわけではありませんが、事情が許すなら、主の歩まれた道を歩んでくることもよいでしょう。イエスは、神殿の門前や中庭で、鳩や羊を売り、両替をする商人たちを怒られましたが、それに似た観光客目当ての商売がなされていることも伝えききますが、それも飲み込んで出かけないと、行って見てくることできないことでしょう。実際に行かないまでも、今は多くの映像が提供されており、現地の様子を見ることができます。それらは私たちが主のことを考える助けになります。
 誕生、エジプトへの避難、ナザレの生活、大工仕事、バプテスマのヨハネの洗礼、荒野の試み、弟子との生活、宣教、そして受難、復活と昇天と思いめぐらすことは尽きることがありません。
 「恵みと真」はイエス・キリストによって私たちにもたらされました。イエスは、助け主「聖霊」を私たちに遣わしてくださいました。それによって私たちに「霊と真の礼拝」の道が開かれました。クリスマスの時に、静まって霊と真の礼拝をなそうではありませんか。

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