同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第36回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

2. 旧約における三つの職務の考察(つづき)
2.2 預言者(つづき)

 預言者の職務についての考察を進めています。
 前にも述べていることですが、祭司、預言者、王の職務についての大まかな把握として考えてみます。
 王はこの世の生活については司法律法行政の三権すべてを掌握しています。しかし神の世界に関して言えば、立法は預言者の職務、行政が王の職務、司法は祭司の職務と言えるでしょう。
 預言者は、守るべき基準を神から授かって語り、記しました。預言者について、その生涯を通して預言者を務めた人を中心に考えていますが、バラム(民数記 22章-24章)や、大祭司カヤパ(ヨハネ 11:49-52)のように、ある時だけ預言をした人も多くいます。
 祭司はその記されている規定に従って、人々の行ったことが罪であるか罪でないか、潔いことか汚れたことかを判別しました。王は、人々が預言者の示す神のみ心、基準に従って生きることを求めるべき人でした。旧約聖書の記事では、理想的に行動した王が少なかったことが分かりますが、それが求められていた内容です。
 王は神のみ心、基準からはずれる人々を処罰して従わせる権威を持つと同時に、人々の庇護者であるべきでした。
 祭司は、罪の判定者すなわち裁判官であると同時に、執り成し手すなわち弁護士も兼ねていました。付け加えて言うなら、検察官は預言者が記した律法でした。「わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。」(ヨハネ 5:45)祭司には、「罪を告白」(レビ記 5:5)した人に対して、贖罪の儀式を執り行い、犠牲による罪の赦しをもたらす中保者の役目がありました。
 預言者は、神のみ心を示すと同時に祈りを持って神の前に立つ執り成し手でありました。
 王、祭司、預言者それぞれが、断罪する人であると同時に赦免を願う人であるという二面を備えています。究極は、イエス・キリストがそのようなものすべてを備えておられるお方であることを示すのです。そしてイエス・キリストの体である教会に属する信者ひとりひとりが、その一部をなしその職務の一端を担うのです。
 さて、預言者の祈りについて聖書に記されている実例としてサムエルを取り上げてみましょう。サムエルは、執り成しの祈りをすることが彼の職務であって、祈りをやめることは彼にとっては罪であると考えていました。そのことを示す以下の記事を考えます。
 サムエルの働きによって、イスラエルは国としての形が整ったのです(サムエル記 I 7章)が、人々は周辺の国々同様、王による統治を望みました。サムエルはそれを憂いましたが、神は民の言い分を聞き入れよとサムエルに命じました。神の言われた内容は、人々がサムエルを退けたのではなく、イスラエルを統治しておられる神ご自身を退けたのであるということでした。
「そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、彼に言った。「・・どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」彼らが、「私たちをさばく王を与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。今、彼らの声を聞け。・・」」(サムエル記 I 8:4-9)
 そこでサムエルは王を立てる動きを取りますが、ひとびとが神から離れないよう雷と雨という徴によって警告をしました。その中で、彼は自分の職務として、「あなたがたのために祈ると宣言しています。そして祈りをやめることは、自分にとって罪であるとしています。
「あなたがたは、アモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王が私たちを治めなければならない』と私に言った。今、見なさい。あなたがたが選び、あなたがたが求めた王を。見なさい。主はあなたがたの上に王を置かれた。もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、あなたがたの神、主のあとに従うなら、それで良い。もし、あなたがたが主の御声に聞き従わず、主の命令に逆らうなら、主の手があなたがたの先祖たちに下ったように、あなたがたの上にも下る。今一度立って、主があなたがたの目の前で行われるこの大きなみわざを見なさい。今は小麦の刈り入れ時ではないか。だが私が主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。あなたがたは王を求めて、主のみこころを大いにそこなったことを悟り、心に留めなさい。」それからサムエルは主に呼び求めた。すると、主はその日、雷と雨とを下された。民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。民はみな、サムエルに言った。「あなたのしもべどものために、あなたの神、主に祈り、私たちが死なないようにしてください。私たちのあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えたからです。」サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに従って、わきへそれてはならない。それはむなしいものだ。まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。」(サムエル記 I 12:12-25)
 サムエルは自分が油を注いで王としたサウルが、神に背く者となったことを憂いました。サウルを叱責し、サウルの回復のために尽力しましたが、それは成功しませんでした。サウルのために悲しみ、執り成しをしました。
「サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。主はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」(サムエル記 I 15:35-16:1)
 サムエルは、サウルの回復の時が過ぎ去るのを見なければなりませんでした。 「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。」(伝道者の書 1:18)であって、先が見えるということは、預言者に悲しみをもたらすものです。預言者は神・主(キリスト)の心を心としたひとびとですから、
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」(ルカ 13:34)と嘆かれたイエスと同じ心をもって嘆いたのです。
(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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