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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-179 —
   -- 2026年8月 開催 --

山本 咲


歴代誌Ⅰ 6章

 1節から15節まではレビ人の特別な大祭司の系図が書かれている。また16節から30節はレビ人の系図で専門職の三つの部族の系図、そして、31節から、53節は各部族の3人の讃美リーダーの系図が書かれている。その後54節から81節にはレビ族の居住地、つまり彼らに与えられた土地が書かれている。
以前も語ったが、歴代誌というのはバビロン捕囚からの帰還の民が礼拝をするために書かれた。そのため、彼らが神の民であり、礼拝の民であることをもう一度明らかにし、教えるためにこのように系図が書かれているのである。今日のところはレビ族について書かれている。彼らは12人の兄弟の中から特別に神の働きに仕えるという役割を与えられた。そしてそのことで足らなくなった一族の分はマナセとエフライムが2つ取ることとなる。彼らは選び分かたれて神に仕える部族と言われている。その最初はそのような形ではなかったが、出エジプトの際モーセが選ばれ、そのモーセの家系から祭司職に就くものが選ばれる。もともとイスラエルの長子は神に捧げられたものとして家族や一族の祭司的な扱いになっていた。それがこのところでレビ族がその役割を担うようになり、長子の代わりとして神に仕えるものとなったのだ。神は全能の存在であるために本来奉仕をしてもらう必要はない。しかし、神は仕えることを許され、それによって神は選び分かつということをし、神を忘れることなく仕えることを求められたのである。仕事として生きるためということも少なからずあったが、彼らは神に仕えることを民に求める存在として12部族内に散らばり、それぞれの地域の一部を受けることになる。逃れの町や、譲りの地というものが特別に彼らに与えられ、同時にその地の部族から分け与えられるものを通して、生活していた。そのため彼らを豊かに迎え入れた者たちはレビ族から神の言葉を聞き、主を覚えて教えられるということができた。しかし、一方でレビ族を大切にしない部族はその地ではレビ族が生活できないゆえに離れていってしまい、神のことを覚え、教え、仕える人がいなくなるという状況になってしまったのだ。その結果どんどんと不信仰へと陥ってしまい、真の神を見失い滅びへと向かっていくことになる。その最終的な結果が捕囚という状況であった。その後バビロンから帰還を許された祭司であり律法学者であったエズラという人物は帰還の民の中にレビ族がいないということを憂いた。それゆえにレビ族をみつけることを重要視し、その後もう一度、彼らを神の働きに仕えさせるようにしたのである。このことはエズラ8章15~19節に書かれている。語ったように彼らはそのようにしてレビ族がともに生きることを通し、信仰に関することを委託し、守っていくということを行ったのである。
歴代誌に入ってこの書は帰還の民の書として神の豊かな赦しとそこからの回復、そこに神の憐れみがどれほど豊かであったかを述べている。だからこそ預言者による記された歴史書に比べると様々なことが抜けている。それは彼らの不信仰に視点が置かれているのではなく、赦しや憐れみ、回復をもって神からもう一度その資格を受けたことを重要視しているからである。
私たちは礼拝を守っている。それは神の守りと赦しを通して、本来ならば滅びなければならない人間であるにもかかわらず、神を礼拝するたましいとなったからだ。私たちはその罪のゆえに神を神と思わず、どんどんと悪へと陥ってしまった。そこから、主は回復の道を供えられたのである。
歴代誌という書の役割から考えると、この章が81節というボリュームを見るならば捕囚から帰ってきたときに、以前までと同じように民の中に散らされ、その働きに遣わされたように、つまりはレビ族が元の主の働きに戻れるようにと供えられたのである。
私たちは新約の時代、この世に在ってレビ族のように神にえり分けられて福音を語る働きを与えられていると言えるだろう。神の選びは旧約ではイスラエルにあったが、そこから新約の時代で多くの者たちが救われた。私たちはそこから礼拝者として見出され、神の言葉を述べ伝える者、仕える者として見出されたのである。だからこそ、それぞれその働きに召されたところで真実にその使命を果たしていきたい。このところもそのために豊かに力と知恵が与えられることを信じ学びの時とさせていただきたく願う。

Q:神に喜ばれる働きについて考えることがあり、メッセージの中でもそのようなことが語られていると感じています。そのように信じてすべてのことを祈り信じて始めるが、自分の不足を含め、それが本当に正しいのかと悩みます。

A:あまり答えを急ぐことはない。ただ自分を喜ばせたいという思いをどのように排除していくかが重要である。動き出しの中では様々なことを思い浮かべ、足りなさよりもそのようなものでも神が導いてくださって成長し飛躍していくことを期待して歩みだす。しかし、その期待にはそう簡単に答えが与えられるわけではない。これは神の働きだと信じて歩み始めたはずなのに思ったように実を結ばず、むしろ是正をうながされるようなことも起こってくる。そうなってくるとどうしてもその現状を苦しく感じるものである。しかし神のお与えになる流れと、そのタイミング、時間がある。いいことはすぐに起こると安易に期待するがそうでもない。しかし、思い描いたようではなくとも、あるところで結果が出る。そこに神がそのことをしてくださったという栄光があらわされる。その中でもちろん振り返って是正や導きが与えられる時もある。神が与えてくださるその御旨というものを答えとして受け取りながら、これまでの歩みを振り返りその時を受け入れるのである。
その中で時には反省の必要や過ちを痛感する瞬間もある。しかし、それもまた、神からの応えであり、忠告であり、学びを通して自らを飛躍させるものとして神が用意されたものなのだ。その先に神は必ず成長を与え、信仰と共に手の届く大きな目標と結果、祝福をお与えになろうとしているのである。
侮りや傲慢、自分なら簡単にできるという思いが先にあるとそれに至ることはできない。しかし自分が本当にできなかったことや、助けられたこと、憐れみだったことを数える時、それは豊かな成長を与えるものとなるのである。そして、そのような自らの姿を隠すことなく真実にあなたの愛する対象に語るとき、それがどれほど乱暴なやり方だったとしても彼らはあなたを侮るのではなく受け取り、その事実から学び、成長していくのである。そのように生きていないと不信仰な歩みは自らのものを誰かに譲っていく時に困る。本来それは特に近しい愛するものへと受け継がれなければならない。にもかかわらず、彼らが一番近くで見ているゆえにそれが正しい形で真実に行われなければ、捨てられ見放されて終わってしまうのである。またその結果をみる周りの人々にもその信仰がどのように受け継がれたかという形で現れるようになるのである。それこそが生きた証となるのである。一番大切なことは神があらわしてくださるその時までじっと待つことだ。早めに自分で答えを出して満足してしまうことがあってはならない。それは決して遅くないときに神から周りの人々を通して豊かに証しされるものとなるからである。

Q:先ほどあった事柄なのですが、この集会が始まる前にお茶の準備をしていた際、ポットに何が入っているかわかるように付箋を貼ってほしいと盡子師に頼まれました。そこで私は、その時に付箋を貼ったのですが、盡子師は「剥がれたら中身がわからなくなるのだから、テープで止めた方がいい」と私に語られました。私としては給仕係がその担当をしているのだから、付箋が落ちたとしても、彼らがその中身を再度確認してお茶を準備することは働きとしてあってもいいのではないか、そこまで丁寧にして先回りする必要もないのではないかと思ったのですが、どう思われますか。

A:色々なところに視点を当たるべきだが、私はまず言うことを聞くということに最も大切なことがあるという考え方がある。すべてのことを置いても従順であることが重要なのだ。その次に積極性や、工夫、忖度などが必要となってくる。だからこそなによりも「従順であることへの色々な意味での不足」はまず訓練されなければならないことであると私は思う。私がもし子どもたちに躾をしていくうえで一番に何を教えるかというと従順だ。それができた後に創意工夫や、知恵、忖度や実績などを教えていくべきだと思う。従順が身につかずに先に行ってしまうと私は大きな欠落を後から招くような気がする。ただ従順の対象が誰でもいいというわけではない。とはいえ、誰かを選ぶようになるといけない。ただ迷わせないためにも最初はとにかく従うことを教える。その先で主体性がどうしても必要になってきたら初めてどうしていくかを本気で考えて動けばいい。誰か指示を出す人がいるならまずは言うことを聞いて動くのがいいと考える。そのうちにどうしても何かをしなければならないというところが与えられるときがくる。しかしその時には意外と色々なことが身についていて、対応できるようになる。もちろん足らなさを覚えて勉強の必要性や考えることを必要とすることもある。あまり急いで自立する必要はない。特に信仰生活においてはまず従順であるべきだと思う。抽象的だが、そこに真理を見出し得ると思う。盡子先生がこうしなさいということには「はい。わかりました」という必要があると思う。もうしばらく、誰かが何かを言っている限りはあなたも聞いて従う者である方がいいと感じる。従順の良さや徳を豊かに知って、その後に自分が誰かを導くことや指示を出すということに取り組んでいくほうがいい。自分主体で行うことを急ぐ必要はない。私は石井商工での働きの中では親方の指示に従う方がよかったと学んだ。賢い上司だったからよかった。とはいえ、間抜けな上司でも従う必要はある。
ある兄弟はその当時所属していた会社の社長の息子が愚かで働く多くの人が社長の息子のことを馬鹿にしていた。しかし、彼は相手に対してそのような態度を取らずに働いていた。その結果、彼が足の大けがで3か月入院しなければならないような状況に陥った時に仕事を辞めさせられることなく、怪我が治った際に復帰することが許された。このことは私にとっても大きな教訓であり、従順と共に謙遜に歩む必要性を感じたことである。
また誰かに従っている間、その責任は相手にある。それによって間違いが起こっても、時間が倍にかかっても、最終的にはその責任は問われない。だからこそ聞き従うのは自己防衛にもなるのだ。そうでなくても実力が付けばいやでも責任ある立場を任されるようになって、間違いが起きれば全部自分の責任というような状況もやってきて、胃の痛い思いをしなければならなくなるのだ。とにかくしばらくは従順に下っ端で生きる必要がある。
あなたは牧師と言う立場でもある故に聞きずらいかもしれないが、もうしばらく伝道師である盡子先生を上司として従順に従っていく必要があると思う。私もあるところまで光明牧師に従順に従った。あなたもまず従順を会得してもらいたい。

Q:先日のサマーキャンプの期間中、子どもたちのトーンが大きくなった瞬間に「静かにしなさい!」とさらに上回る声で私は注意をしていました。それに対し盡子師が「外部の人もいる時によくやったよね」といわれました。そのよくやったがいい意味なのか悪い意味なのかは今一わからないのですが、そのように突然、反射的に注意をしてしまうことに対して合理性はありますか。

A:その時にやらなければならいことは後回しにせず、その時にやらなければならない。子どもたちの中には突発的な行動をしてしまったことに対し、すぐに注意をする必要があることも多い。とはいえ、一度出してしまった言葉は戻らないのも事実である。私もそうだった。だからこそ今は一度飲み込むということをするようにして、突発的にしないように注意している。もちろん年齢的なものでできるようになった部分もある。また、直接的な子育てが終わり、その対象がいなくなってきたこともある。最近家内に対して大きい声を出したこともあったが、それは一応感情的ではなく、ワンテンポ置いてからそれでも必要として声を出した部分があり、それによって謝罪も受けた。ただ、子どもが何かをしたときに対処をしなければならないことはあなたにこれから多く起こってくる。その時にどうしていくかは重要なことだ。
聖霊は豊かにご自身を表してくださる時がある。祈りはその事を私たちに豊に悟らせるものになる。本来、祈りは天の父なる神に祈るものであるがしかし、三位一体なる神を意識する必要がある。父なる神に何を祈り、イエス・キリストに何を祈り、聖霊なる神に何を祈るのかと考えていく中で、自分の祈りを吟味し、願い事だけの祈りにならないようにしていかなければならない。そして偏りなく、豊かにそれぞれの位格と交わりを持っていく必要がある。それぞれのお方に祈る必要があるのだ。そうでないと相手を適当にした無礼な行為になってしまうのだ。私たちは神や信仰に対する姿勢が整わないからこそ社会の中でも整わなくなるのである。
スポーツジムのサウナで話す方が私たちと一緒に行っている小学6年生の兄弟を「彼は挨拶などきちんとしている」と褒めていたことがあった。その言葉は私を意識したものではあったが、うわべだけのものではなかった。小学生の兄弟であっても、教会やその信仰生活の中で整えられている姿が世に在って表されているからこそ、そのように相手から思われたのである。そのように私たちの心や信仰は私たちの内から様々な形で表される。だからこそ、何より祈りというものを吟味し、自らの信仰に対する姿勢を保っていく必要がある。そうすると聖霊なる神の存在が私たちに必要な時、その存在を確かに意識し、ともにいてくださることに感謝するし、私に指し示しをしてくださいと祈ることができる。聖霊は私たちに語りかけ、指し示し、時には物事へ対峙する力を与えてくださるのである。これほど豊に私のようなものと共に歩んでくださることに感謝することができる。「私は私のようなものを友人にしたいとは思いません。しかし、あなたは私を友としてくださった。本当に感謝します」ということが大切なのだ。そうではなく、わがままに「私は大丈夫なんだ。どうにでもできるんだ。自分一人でもできるんだ」と思ってしまう人がいる。しかし、それは大きな誤りである。私たちはこれまで長い間サマーキャンプを行っているが大きな事故がこれまで起こったことはない。それは神の豊かな守りがあるからこそである。聖霊なる神との交わりを豊かに持ち、ともにいてくださるその存在とともに今後も子どもたちに愛を持って関わって頂きたく願う。

Q:従順であることにたいする訓練とのことを教えていただきました。私はある時期を上司の言うことを聞くという姿勢を大切にすることを教わりました。そこから自分の実家の会社にもどり妻とともに過ごす時期をすごし、その先で現在私に向かないのだからと妻が会社の大きな部分の働きをしています。私は自分が助け手として何かするべきだとチャレンジを求められている気がするのですが、それ自体が上手くいかないことも多く、どのようにしていけばよいでしょうか。

A:私たちを入れてことを動かしていくということは大切である。私は工場で働き、家内は事務を一部手伝っていた。そのような関係を培いながら、あなたの奥さんと実績を出してきた。ただ、そこには役職が重要なのではなく、実績が重要なのだ。社長だろうが、専務だろうが名前がつこうと会社の役割を全うしたかどうかが重要である。その意味で貴方と奥さんの競争は最終的に奥さんが勝ったという事実を認めるべきだ。だからこそ、対峙するという立場ではなく、奥さんのもとで働くという地位にいなければならない。そうでないと結局結果は善くならない。あなたの年齢や会社の現状をみながら次を考えなければならない。勿論そこであなたが相手の結果を批判することもできる。しかし、それは何も見出すものにならない。何かを提案するにしても今置かれている現状のルールや出来事を把握していかなければならない。野球場にテニスラケットをもっていっても何の役にも立たない。どれだけそのテニスラケットがよかろうとも、野球場でやるのは野球である。だからこそその場所にふさわしいものを備えていく必要がある。あなたは年齢とともにあきらめや自制が必要になることを知るべきである。潔く自分を知り、自分を制御して今何をするべきか回りを見つめ直して事を行っていかなければならない。そのために誰かの助言を受けて客観的に見てくれるようにしていくことも必要だ。もちろんその人を置くならば、その人に何かを言われたら聞き従はなければならないことも併せて重要である。そうでなければ成り立たない。今60歳で定年を迎えたおじさんたちがスーパーで品出しをしている姿をよく見る。それまでの功績がどのようなものだろうと、働きが何だろうと関係なく、今置かれている場所で必要なことをしているのだ。動線をふさがず、人の動きをよく見て働き、品出しやカートの片づけというような仕事をしている。そしてそれを嫌々ではなく、活き活きと行っているのだ。それこそが重要である。嫌々行うということはどこかに不満を持っているのだ。しかしその不満がどこから来るのだろうか。自分がそのような仕事をするような立場ではない。もっと役職の高いところにいるべきだと思うからそう考えるのではないだろうか。しかし、本当の自分の価値を潔く認めるべきだ。そして、必要以上に頑張って何かできるように見せなくてもよい。誰かが自分の人生を評価していると思う必要はないのだから、現状にマッチしているところで収まり、そこで十分に働きをするべきである。
私はスポーツジムに行っているが、そこにはお年寄りも多い。そのような人にはデイサービスを受ける必要がない。私の父はデイサービスが嫌だったからこそジムで体と心を保ち、最後まで貫き通した。同じようにしたくないならしなくてよい。嫌々するくらいなら、自分が楽しいことを活き活きとすればいい。そこで誰かと比較して卑屈になりながら立派なことを行おうと無理をする必要はない。それよりも趣味で喜んでいけばいい。ある年齢を越えたら、窮屈な人生よりも人の迷惑にならない形でやりたいことをすればいい。
私はあなたの奥さんにさっき語ったが、どれだけ自分が愚かだったかを語らないうちに誰かにわかりなさいということはおかしい。そして私自身も子どもたちにそのように語った。自分の功績を語る必要はない。むしろ自分の愚かさを語り、そこから主がどれだけの憐れみをもって救ってくださったかを語らなければならない。それ以外のことは時の無駄である。必要なものは何一つ出てこないで終わり、またお願いしますとは決して言われなくなってしまうのだ。謙って主イエス・キリストの憐れみを自らの罪深い現実からの救いと共に語るのである。

今回多くの方がまな板に乗って自分をさらけ出して質問してくださった。それに心から感謝する。そしてなお互いに謙遜をもって学び合い、仕えあいながら、主から与えられる恵みをもって歩みたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)