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質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-177 —
-- 2026年2月 開催 --
山本 咲
列王記Ⅱ 25章
サムエル記から続くイスラエルとユダ王国の姿が記されている。その最後は彼らの滅亡であった。しかし滅びを前にしていてもユダの民は預言を聞かず、その危機的状態にあっても悔い改めてたち帰る事を求めなかった。そして自らの求めるものにのみ心が動かされており、問題をそのまま放置し続けたのである。この時代の預言者エレミヤは神の御心は何処にあるのかと探り続け、その示すところに主の威厳があらわされていたが、それでも民は動かなかった。その最後にゼデキヤがネブカデネザル王によって傀儡王としてたてられたが冷遇という中にあってもそれを受け入れて生きていくことが求められていた。それこそ神の御旨に従い、存続を保つということであったのだ。なぜなら、彼らの受けるそのすべてが、彼ら自身の犯した罪のための裁きであったからである。彼らはその刑罰を甘んじて受ける必要があったのだ。しかし、彼らは傲慢にも自らの罪を悔い改めるのではなく、信仰であるかのように信じるから救われますようにとただただ助けの御手が伸ばされることだけを望んだのである。
その後、バビロンの国で問題が起こり、ネブカデネザルが処理のために引き下がるとゼデキヤは傲慢に戻ってしまった。それによってエルサレムが包囲され、完全に滅ぼされるということが起こってしまったのだ。エルサレムの神殿、王宮ももちろん破壊された。彼らは主の神殿があるから、また契約の箱があるから、神の臨在によって守られると思い込んでいた。しかし、それは神の神殿すらも偶像にしてしまうという傲慢で神からかけ離れた心の表れだった。だからこそ、私たちは気を付けていかなければならない。私たちの生きる中でも神は語りかけてくださっている。私たちが大切に意志なければならないものを神は一つ一つお示しになっているのだ。だからこそ、それに従っていくという生き方が重要である。そうでないと自分勝手に自分のしたいことだけをまるで御心のようにとらえ行動して、滅びに至るのである。ゼデキヤはその最後の時、家族の死を見せられた末に目をくりぬかれるという残酷な結末を迎える。大変厳しいものである。しかし、それを受けなければならないほど、彼は本来行うべき責任を果たさず、堕落したイスラエルの民の現実を当たり前として放置したのだ。そんな彼らの状況であっても滅んで終わりというわけではなかった。彼らの上にはなお主の憐れみの御手があったのである。そしてそこに救いがもたらされていく。私たちは神に仕えるということを自分の物差し、考えですべてを行ってしまう。刑罰すらもこうあるべきだという考え方をもって「こんな処罰があっていいわけない」と主権者である神を侮り本来求めなければならない憐れみを蔑んでしまう。だからこそ、深く苦しむことになる。そんな罪深い人間であっても、主はそれで終わらせる方ではない。主の憐れみは深く、その恵みはとこしえにある。だからこそ時間をかけてもう一度彼らは立ち上がっていくことになる。私たちはそのことを覚え、主に選ばれ救いに至ることができたこと、そのすべてが自分で得たものではないこと、また自分の思いにとらわれてはいけないということを自覚しながら自らが行うべき主の御旨を探り求めていかなければならないのである。
話が飛躍するようだが、私たちの周りには多くの人がいる。その中でどれほど神のことを語れるだろうか。「誰でも、かれでも語る」というわけにはいかない。とはいえ、私たちの主観でえり好みして語ることも有るべき姿ではない。その一方的な恵みを選んで語るのではなく、主の御旨に従って導かれたところで豊かに語っていく必要があることが示されているのである。
Q:今日の語られた最後のところにゲダルヤが総督に立てられたところとその後イシュマエルが彼を殺してしまうということが起こります。そのことから見るとこのイシュマエルの行いが神の御旨から外れていたということでよろしいでしょうか。
A:そのとおりである。彼はその最後のところまで逆らい続けている姿が記されている。まるで神の民を救うというような形をとったものだったがお粗末なものである。解決に向かうように思える行動をするが、結局は神の御業の前には逃げ出すしかないものとなるのだ。彼らはまるで最善を行なったというようなポーズをとるが、実際には整ったものではなかったのだ。私たちも信仰生活の中で何を行っていくか思い悩む。時には大きなことがらに手を出そうとしてしまう思いが起こる。もちろん、この日本と言う国のクリスチャンが増えるように時に私達の思考が至るかもしれないだろう。しかし、そういう意味で彼らは大きく手を広げたが、足元の本来基本となるべきである信仰に全く手が付けられていないというような状況に陥っていたのだ。
神の刑罰は受けなければならない。愛があるから全くなくなるわけではないのだ。正しきは全うされる必要がある。私たちも子どもに対してそのように行っているだろう。子どもを愛しているからという理由で刑罰を取り除こうとするのは誤りである。そうすれば子どもの中に秩序は生まれず、神を知ることもない。愛は甘やかすことではなく、正しく注意し、悔い改めを求め、そこから回復する道を示すことである。列王記は楽観視する民の前に預言者が神の考えはその様なものではないと示し続けている。しかし、彼らは聞く耳を持たなかった。結果として、滅びを迎えることとなるのだ。
Q:最後にエホヤキムの晩年が記されていますが、エジプトに下った後にこの出来事が起こってきたことを考えると神の御心はそこにあったということですか。
A:そのとおりである。ヨシヤ以降は悪しき王だったということが聖書には一律に記されている。エホヤキムの状況を見ると彼は優秀な王だったのか、なぜ助けられたのかという視点でとらえやすい。しかし、ただ主の御旨がそこにあったのだ。その摂理によるものであった。それは確かである。彼の晩年が回復したという姿を見ると、聖書には詳しく書いていないが、彼が悔い改めに至ったのではと読むこともできる。結果からそのように推測されるのは、ただの予測ではなく聖書の真理により読み解いたものとしても良い。しかし、最も大切なことはエホヤキムの後世を記しながら、神が一方的に憐れんでくださった事実を認める必要性である。
Q:先日の礼拝の時に「慎みと恐れ」が生活に染みこんでいるかということが語られていました。そののちに判定の不十分さということも示されました。もう一度教えていただいても良いですか。
A:時間が中途半端だったことがあり、少し先取りしたような形で語った部分である。天の御国という神のご支配の中で私たちが生きていくということを語り続けてきた。天の御国が私たちにとっていつか来る未来のあやふやな話ではなく、豊かに神はイエス・キリストを通してその姿を語り続けてくださっているのだ。だからこそ私たちの信仰生活において、主のご支配の中に自らを置いていくと、その天の御国を先取りすることができると語ったのである。もちろんそれそのものが与えられるというわけではなく、この地上の生き方の中にもまるでコピーのように天の御国を味わうことができるのだと語ったのである。以前天の御国とはどのようなものかというところをいくつかの点で取り上げた。それはなぜかというと、私たちは自分の思いで天の御国をイメージしやすい。それは信じているうちは良いが、そこから少しでも逸れると不安になってしまう。「あれ、これってちがうのでは」と思いやすい。天の御国は喜ばしく、良好なものであると捉え、受け入れるが、それが少し狂いだすと揺らいでしまうということが起こってくるのである。それもまた私たちの信仰生活であることは事実だが、聖言は豊かに語り、私たちのこの地上での営みの中にその実態のコピーを見せてくださるのである。それは幸いなことである。そこには秩序が存在し、慎みと恐れが神のご支配を豊かに私たちのものとさせるとへブル人への手紙は私たちに語っているのである。
へブル人への手紙ということはヘブル人へ語ったのである。イスラエルの歴史をよく理解している者たちだ。だからこそ慎み深く憐れみを手放す事への恐れをもって歩むということを語ったのである。
慎みを象徴するのは自らが不十分な視点しか持ってないということを自覚することである。慎みが無くなると私たちの行動は今日の聖言の記事ではないが、自分たちが正しいというか、主は何でも聞いてくださる、祈れば与えられるだろうとか、こうしておけば大丈夫だろうというような生き方になってしまう。しかし、そうではなく、自らの行動をもう一度振り返りながら、どう生きるべきか、神に奉仕するべきものとして恐れをもってその神の秩序の中に生きる必要があるのだ。イエス・キリストの贖いには罪の赦しということと良心がきよめられるということにいたるということに焦点を当てた。赦されるだけでなく、再度同じ罪を犯してしまうことの無いように聖霊が働かれるということと共に、良心がきよめられるということが起こってくるのである。それがなされていくと慎みというものがいよいよ私たちのものになっていく。先日のへブルのところには神が私たちを神の奉仕をするものとしてくださるということも書かれている。私たちが慎み深く秩序の中で畏れをもって生かさせていただくということが重要なのである。
Q:前回の聖書を学ぶ会から考え続けていたのですが、お話の中で吟味するという言葉を使われていたので、自分が何かを吟味しているだろうかと考えていました。しかし、やってみると吟味するまでに至っていないのではと反省しています。どうしたらそこまで至ることができますか。
A:吟味する事の術は長く信仰生活をしているかということは関係ない。私たちの悩みが信仰と結びついたと語る人がいる。しかし、そう言いつつも実際その問題に速やかな解決が与えられるとそこでただ終わってしまうとそれは吟味することにならない。本来はその過程を再述する必要があるのだ。そうでないと結び合わせなければならない神の御業を自分の力だと思ってしまう。それでは信仰へと導かれずに終わってしまう。過程がどうであれ、そのようにきちんとした形で結論が出ないと信仰生活の意味が無くなってしまう。御利益宗教のように、うまくいっているときはいいが、うまくいかなくなると落ち込みが大きく回復が困難になるのだ。だからこそ、もう一度信仰で思考し、際述し、吟味し、その中で結論を出し、その結果をどの様に捉えることが出来たかを証として残すのである。それによって神の御業をもう一度認識するということができる。周りで起こってくる出来事をそのようにして見ていくことによって恵みを再認識し、それがどのようにして起こってきたのか、また、そこに至るまでに何が行われたのかを正しく捉えることができるのである。そして伴侶者や友人、家族など隣人と語り合う中でその事実を確認し合えると、より深めることができたり、恵みを分かち合ったりできるのだ。そして、あなたの一番近くに生きている者ほど、同じ土俵、現場の中で信仰者としての正しい歩みを模索している。それは同時に相手と同じ立場に立って自分ならどう行動するか、相手と同じようにできるかと考えていくことにもつながるのである。そのような積み重ねの中で相手を尊重することや大切に思うことができ、成長しあうことにつながるのである。そのようなことが不足してくると、勝手に一人で歩んでしまい、ふさわしい形でのコミュニケーションができなくなってしまうのである。それは自分より無力な子どもに対しても同じである。無意識のうちに子どもの存在や人格を低く見積もってしまうのである。その対応は静かに伝わり無反応になり、一方通行なものになってしまうのである。自分の生活を振り返りながら、静まって聖言と照らし合わせてその歩みをまとめてみたり、日記にしたり、メモにしたりすると良い。とはいえそれを読み返さなければ意味がない。どのような方法でも自分に合うものを見つけていっていただきたい。私は全てを覚えているというわけではないが、そのようにして心に残したものが景色として必要なときに浮かぶという経験が多くある。そしてもう一度その時を思い出すのである。だからこそ、よく自らの瞑想を大切にして意思というものと向き合っていく落ち着きや、冷静さが大切であると感ずる。
Q:優先順位ということを良く語られますが、職場で仕事をすることに対して、徹底して行うということや出来栄えに重点を置いている人が世の中には多いと感じます。しかし、自分は家庭を大事にしたいということでギャップがあります。私は明日できるなら明日でもいいと割り切って帰りたいと思いたいのですが、他の人は今日のものは今日の内に終わらせたいと言われて残るようにとなってしまいます。しかし、今の職場はそのような人が大半で、傾向的にそのようになりやすいです。そのような中で自分はどうあるべきかと悩んでいます。私はこうしますと対峙するべきでしょうか。
A:簡単であれば悩む必要はないのだろう。容易く割り切れないからあなたは悩み、それが足かせのようなものに思っている。価値観としてあなたがそれを重要視して対峙していることはとても良いと思う。しかし、それを勝ち取り続けるために手段を講じなければならない。相手はそういう考えを持っているのだということを分析し理解しようとしてもその違いは埋められない。相手を変えようと思っても難しい。だからこそ、どのように共生していくかと考えていく必要があるだろう。そしてその方向に気持ちを持っていくと色々見えてくる。互いの正論をぶつけ合ってもうまくいかないと思うなら静かに貫く心の強さを持つことである。一般的には相手を思いやることを優先するように言われているが、信仰者が最優先すべき事は価値観のベースに何があるかを考えることだ。それが信仰に基づくならば、真実に神の真理を大切にして歩み続けるのである。そしてそれは揺らがない強いあなた自身を形成する。あなたがこれまで働きの中でゆるがずに来た姿勢という人々の信頼を勝ち取るあり方はかけがえのないものなのである。それを大切に持ち続けてなお戦い抜いてほしい。
Q:先日の木曜日にあった出来事だったのです。保育の仕事場で昨年7月ぶりに預けられた方がいたのですが、そのことを覚えていて声をかけたところ、その方から長男さんが他界したという話を聞きました。私はその出来事にショックを受けてしまい、そばにいてその気持ちを受け止めていくということしかできませんでした。その方は4月から仕事復帰を始める中でそれでもまだ気持ちの整理がつかないと語っていました。私はその話を聞き、呆然としてしまいました。最後には「そのお母さんに悲しみはあるけれども今この目の前にいるこの小さくて元気ないのちを大切にしていかなければならないよと声を掛けました。」しかし、どうしてもそのことに心の動揺があり、重荷のように感じていました。また家族にもその思いを打ち明け、自分の気持ちや、それに対してどう思うかということ、心の重さを話しました。そんな中マタイの福音書5章44-48節のところがデボーションの個所で、私たちのためにまずイエス・キリストがその代償を支払ってくださったのだから、私たちもそのような重荷を担っていかなければならないと思わせられました。先生は色々な人の話のなかで重荷と思えるようなこともあると思いますが、どのように共有し担っているのでしょうか。
A:まずあなたが前回その人とのかかわり方の中で覚えていたことから声をかけた事実によって距離を埋めさせたのだ。あなたが前回その人の言ったことを覚えていたからその相手はあなたに心を許したのである。半年近く時間が空いた相手のことを覚えているということであなたが無意識に行った行動だったかもしれないがそれによって相手は距離を詰めてきた。あなたが相手の話を受け入れる体制を取るか、それとも無理です、受け止めきれませんという体制をとるかで今後は決まってくる。あなたが次またその人とあう時には全精力をもってその人と関わる必要がある。それは聖書が語られるように私たちがイエス・キリストによって救われたからである。あなたの行動は主によって導かれたゆえに起こったと捉えていいだろう。あなたの記憶にその事実を留めてくださった主はあなたに相手との関りを求めておられるのだろう。もちろんその先のこともまた主が導かれていることである。正解はない。何度も語るが、それでも苦しみや、重さはあるけれども聖霊は確かに力を与えてくださると信じ対峙するならば、必ず全うされる。なぜなら主がそのことを許されたからである。あなたが家族との間でその思いを語れたのもよいことである。その思いを家族は必ず受け止めてくれる。それはあなたにとっても心強いものだろう。そして同時にあなたの戦いをあなたの子どもたちは見ている。その先でどのように導かれたのか、それもまた語り合いながら主の御旨を探り求めていただきたく願う。謙って信じて臨ませていただくとき神はご自身の御業を行なって下さる。
Q:前にニコデモとの話を語られましたが、新しく生まれ変わらなければならないということをもう一度教えてください。
A:新しく生まれるということは古いイエス・キリストを信じない自分を捨てて、新しくイエス・キリストを信じる自分に生まれ変わるということである。罪を悔い改めて、イエス・キリストの十字架を信じるときに私たちは聖霊が生まれ変わらせてくださる。理屈はそうだ。では現実としてどうとらえればいいか。その答えはあなたが常にイエス・キリストを信じて、どのようにあなたに語ってくださるかを探っていくことである。そして続けていくとあなたはその時を捉え、神が応えをくださる。考え求め続けて、その答えが見えたなら私に教えてほしい。
Q:創世記43、44章でユダがベニヤミンのために自らを代わりに差し出そうとしたきっかけというのは何なのでしょうか。ユダとタマルのやり取りが途中にあることを考えると、それによって彼の心が変えられたとも思うのですが、どうでしょうか。
A:そういうこともある。しかし聖言をヒントに語ることは重要であるが、自らの信仰生活に照らし合わせてタマル問題のどの部分が結びついていると読めたのか、そこにどの様なうなずきが導かれたのかが重要なのである。ただ、私はタマル問題自体がユダをヤコブの家に戻すことになったかもしれないが、大きな飢饉が彼らを一つ所に集めたのだと考える。豊かな時、人は離れて生活しやすい。日本の核家族化が進んだのは豊かになったからである。厳しい飢饉を受けていた彼らはヤコブの家にもう一度集うことになる。それは彼らが信頼しているからだ。そうでなければ相手を疑うゆえに安心して身を置くことはできない。彼らは心からヤコブが神を信じ畏れて生きているということを見て感じていた。だからこそ、その信仰を信じて身を置いたと言えるだろう。そして彼らは飢饉の中で互いを思いあい、その中で生活していったのだ。その先に彼らはベニヤミンを連れていかなければいけなくなった。生きるためには必要だった。ただ、その中で彼らは自分たちがどれほど父親であるヤコブを困らせ、悩ませ、罪を犯して来たかを思い知ったのである。その先で銀が返ってくることや、ヨセフの家に呼ばれたことが巻き起こってくる。その心情は計り知れない。そしてさらにベニヤミンを置いていくようにと言われる。そこまでくると彼らはいよいよ自らの罪のゆえにこのようなことが起こってくるのだと受け止めることができた。それゆえにユダはヤコブのことを語り、責任が自分にあることを告白し、自らがそのベニヤミンの代わりに奴隷になると語ったのである。私たちもこの教会に集い、この場所でいのちを救われたのだと思うならば、自分勝手ではいけないという思いや、神を畏れるということを考えていかなければならない。だからこそ、互いに尊重し合い、結束し、良いものが与えられたなら分け合い、共に喜び生きることができる。本来ヤコブが許せばもうこの2回目にエジプトに行くまでの間にさらに2回行けるほどの期間が空いていた。それをもう一度考えるならば、それほどの恐れを抱えながらも、最終的にヤコブは自分の思いだけを通して家族を飢えさせるわけにはいかないと決断を下したのだ。
今の時代、日本は高齢化社会を迎えている。若い人は少なくなり、人々の高齢化が進んでいる。その先では一人一人が孤立し、相手との深い交わり、家族関係が希薄化している。宗教においては特に家族問題が絡んでいる。宗教性が家族の中で継承されているかが私たちにとってはとても重要な問題なのである。だからこそ私はこの教会に豊かにクリスチャンホームが導かれ、子どもが多く与えられていることを感謝する。そして、この教会の中学生の子が「新しく生まれ変わるとはどういうことですか」という質問に対して「それを考え続けなさい。必ずそれに答えが与えられるから」と語れることはとても幸いなことなのである。
彼らはなぜヨセフを殺そうとしたか。それは「ヨセフばっかりひいきにされて、長服を着せられて」と思っていたからである。
先日ある兄弟があなたの献身の発表を受けて「本当に彼を献身させてくれてよかった」と語っていた。あまりしみじみと語る兄弟ではない。ただ、彼は教会に対する愛をそのように示したのだ。それを受けて私は神がそのことを受け入れてくださったと彼を通して示してくださったと信じ、感謝した。
ユダがこのイスラエルの家を一つにしてエジプトに向かわせた片方を担った。その反対は苦しみの中に神の働きを担い準備をし続けたヨセフである。だからこそこの後イスラエルはこのユダ族とヨセフ族が中心となり進んでいく。レビ族は神に仕える働きを担い、それぞれが役割を与えられて今後も続いていく。もちろんすべてが完璧というわけではない。むしろ人間の愚かさは溢れている。しかし、その中にあってもなお続くこの信仰があること、神がイエス・キリストをつかわしてくださり、その救いを成就してくださったことを感謝する。
Q:へブル13章11-13節 11節は旧約との比較で血と体のことが取り上げられていますが、体は清いものではないというあつかいでいいのですか。イエス・キリストが十字架につけられたところが門の外だと考えると、門の外で苦しみを受けられたということなのでしょうか。町の中ではなく外という意味でもそれが重要である印象があります。それを聖所のことと比較してみたときにあまりにもイエス・キリストの扱いがひどかったかと思う。それを自覚するからこそへブルの人たちに語りかけた事実に消化しきれない思いがありました。比較として捉えたときに私たちのためにどれほどまでに苦しみを受け、死なれたのかということをわかってほしいという思いがありました。
A:私自身がよく学びをした記憶がない中であまり語るのもよくないと思うが、へブル人の一番の問題はプライドだった。だからこそ13節に書かれているように自分たちも同じところに立っていくということが必要であり、重要だったと考える。先ほど質問にあったようにこれから語ろうとしていたところだが、イエス・キリストは十字架上で七つのことを語っている。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。意味は「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」である。この4つ目は詩篇22篇の言葉が使われているという解釈があり、それに何が意味としてあるかを考える必要がある。イエス・キリストはそれまで神のことを父と呼んでいた。しかしここで我が神と呼んでいる。罪人としての意識をもって自らの言葉を語ったとする考え方である。イエス・キリストにとって何が一番苦しかったと思うかと考える時、私たちはそこに自分の心が現れる。
以前見た聖書のドラマでイエス・キリストが十字架刑でさらされている人の横を通るシーンがあった。その心にはきっと自分もいつかああなるという思いがあったのだろう。だからこそゲッセマネの園で祈っているところを見ると、本当にイエス・キリストは神の子でありながら、人として産まれてくださったその事実、その弱さをも担われたことを見る。私たちは最終的に死を受け入れてイエス・キリストの求めへと至る。へブル人にとってそのプライドを捨てられないゆえに現在も信じる人が少ない。日本人も同じくらいの割合であることを思うと、本当に私たちも気を付けていかなければと思う。日本人もプライドが高いから。しかし、そのような中でイエス・キリストがすべてのことを担ってその罪の贖いを行われた事実を私たちは心から感謝とともに、それほどまでに自らが罪深いものであることを忘れずにいたい。そして、そこから解放された喜びと共に、なおこの信仰生活の中で福音の種をまきながら、語り続けていきたく願う