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キリスト教—信徒の志す—

― Q&Aルーム ―

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-174 —
   -- 2025年11月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅱ 22章

 この章からヨシヤという王の時代がやってくる。悪王の時代を経て、ユダの滅亡が決定的になってしまったことを前回取り上げた。50年を超えるマナセという王の時代があり、その時代は偶像を中心とした罪の時代を過ごした。続くアモンの時代も、深く記されることが無いほどであったが、同じように悪がのさばる時代だった。その次に来たのがヨシヤの時代である。彼は8歳でその地位に就いた。混沌の中で政治的な勢力も渦巻く中、彼はその時代に登場してきた。私たちは聖書というものを全ての指標として土台に置いているゆえに、その情報は限られている。王の年代記の書というものの存在が聖書にも書かれているが、それがのこっているのかは定かではない。どちらにしても、私たちはその歴史を学び、検証するわけではない。日本の歴史ですらも、改ざんとまで行かなくとも、そこに記す者たちの意図が込められていることを考えるならば、聖書にも同じように筆者の意図が現れる。ただ事実の列挙で終わっているのではないのだ。その意味で、私たちの読む聖書は神の霊感によって記されたものであり、そこには主の御心が存在する。私たちはだからこそ、聖書を読みながら、勝手な解釈をするのではなく、畏れをもってそこで語られる言葉を受け取っていく必要があるのだ。
ダビデ王家の中には善王と悪王と呼ばれる者たちがいる。それは良いとか、悪いとか言うことではなく、そもそも人は悪いものという前提の中でこれらのことを考えていく必要があるのだ。本来ならば悪政しかできないような人間であっても、それが主の恩寵によってのみ、善政を行うことができるのである。そのような背景を考えながらこのところを読むとき、このヨシヤという王はどのようにして現れたのだろうか。祖父、父にこれだけの悪政を行う者たちがいたのにもかかわらず、彼は全く異なった考え方、信仰をもってその所に立った。それを考える時、彼に関わる者たちの中に主へと導くものがいたのか、直接的な主の働きかけがあったのか、それともそれほどの悪政を行う二人がいたからこそ反面教師として、彼は異なる道を選び取ったのか、正確なところはわからない。何にせよ、その背後に神がいること、その支配の中ですべてのことが動いていたのだ。また一方で、ヨシヤという王の誕生を民が受け入れていることがわかる。これまでの時代、彼らは自分の好む生き方をしてきた。そしてそのような生き方を許すマナセとアモンを王に据えたのだ。それならばなぜ彼らはヨシヤ王の誕生を受け入れたのだろうか。それは、霊的なものを民が求めたのではなく、ダビデ王時代の政治体系、彼らが豊かに生き、歩むことができた時代を求めたゆえにこれまでの王の体系から変革を望んだからだった。そこでヨシヤが選ばれていく。選ばれたヨシヤ自身は民の意図とは異なり、心からエホバの神を求めるということこそ重要であると様々な政策を行ったのだ。
それでも彼らがこれまで行ってきた異邦の神を崇めていた事実が帳消しになるわけではない。それをこの先を読む私たちはよく知っている。彼らはバビロンに滅ぼされ、捕囚の時代が訪れる。しかし、最終的にはそこから解放されるという主の恩寵が与えられる。その準備段階としてこのヨシヤの時代があったのだ。民の中にはこの捕囚の苦しみの時代をエホバの神を信じることによって乗り越えていったものも多くいたと考えられる。そういう意味で言えば、すでに改心し、悔い改めた者たちも変わらずにこの捕囚の苦しみの中に投じられた。当然、異邦の地で生命を落とす者もいた。それでもその時代を受け入れ、尚も主を信じ歩むなかに救いが与えられていたのだ。そして復興の時代が訪れ、彼らはもう一度帰ることを許されるようになる。神は歴史の中にこのようなメッセージを残しながら、民を導くだけでなく、私たちをも導いてくださっている。これらを先導した預言者の仕事はイスラエルという選びの民を導くものとなった。しかし、そこにとどまらず、主を信じる者たちを導き、これまで主が行ってくださった様々な御業とその背後にある豊かな憐れみを記す聖書によって神の言葉を伝えるものとなったのだ。私たちは神の恩寵、祝福があることを知っている。しかし、一方でそれらがあるから全く苦しみがないということでもない。そこに厳しさや苦しみがあるときもまた存在し、その中を甘んじて生きなければならない時も存在するのである。だからこそ、恐れつつ歩むことが必要なのである。
律法の書を見つけたヨシヤは自らと民がそれからどれほどかけ離れているかを知ったときに戦慄し畏れを覚えたように、私たちも聖言を軽く流してとらえるのではなく、もう一度目の前に置き、自らの歩みを振り返ると共に悔い改めとその姿勢をもって遜って歩まさせていただきたく願う。

Q:10月の証会の時に語られていた内容の中でノンクリスチャンであるピアノの先生とのかかわりが語られていました。それを聞いた際に見えない神様の業がクリスチャンの方以外からも現れているということが心に導かれ感謝しました。

A:それは当然のことである。私たちは宗教の世界だけで生きているわけではない。この世とともに生きている。またこの世は主のご支配の中ですべて行われているのだ。私はよく相性という話を取り上げるが、この世の人に対しても相性はある。自分と相手との関係を著しく近づけたり、一方で関係を断絶するものになったり、時に曇らせるものにすらもなる。そして、その中に主の意図が働かれるのだ。あなたが語るように、その相手に主の御業が働かれることを祈り、関係を持つ。それを願うことは決して悪いことではない。ただ一方でそれがリスクにつながることも考えていかなければならない。その先生に伝道するために選んでいるのではなく、ピアノを習うためにその先生を選んでいるのだ。とはいえ、関わる中で主に願うことは感謝である。引き続き良好な関係を築き上げ、かかわりの中で主の導き、恵みが働かれることを願うのである。
ピアノの話が出ているが、私たちの教会ではそのような賜物を見つけ、習い事や、活動をそれぞれが行っている。また、教会内でも幼いうちから賛美の御用なども行っている。それは最終的に霊的体力をつけることにつながる。幼いうちにそのようなことを行うのは年齢を重ねてから取り組むよりも結果に大きく差が出るからだ。だからこそ幼いうちから個人の力量や賜物に合わせ、必要に応じてプレッシャーをかけながら行っているのである。そのような経験を通して、彼らは霊的体力をつけていく。私たちの教会は50人も満たない人数で100人規模の働きを行っている。それはこの教会自体に霊的な力が導かれており、一人一人が豊かにそれらを用いるからこそ、複数の働きを担えるからである。
先日の土曜日の午前中に伝道コンサートを行ったが、休みの時であるにもかかわらずそこには多くの人が集って働きをし、日曜日の午後には分科会伝道会でハンドベルの練習や、バスケット、韓国語、三浦綾子読書会と通常と変わらずに事を進めている。この環境もまた神が備えてくださった私たちへの賜物と信じ、感謝を覚える。なお衰えることなく、共に力を発揮してこれからも取り組んでいきたい。

Q:イザヤ書63章9節「苦しみ、、、主は彼らを背負い」この彼らは誰のことですか。

A:イスラエルのことである。イザヤは滅びを告げた預言者でありイスラエルにそのことを伝えているのがこのところである。ただもっと枠を広げて、私たち自身に重ね合わせて考えても問題はない。お昼に咲牧師と先日の礼拝の「故意と過失」という問題を取り上げて会話した。説教者としては大変難しい高度な内容であった。だからこそ、受け取り手にゆだねられた部分も大きいということも感じている。それを自分のものとして捉え得るか、そうでないかによって大きく違いを生むだろう。ただ、その説教を聞いて、ある姉妹がその子どもたちを天国へ導くためにと家庭に帰ってからその日あったことで子どもたちを叱ったと語っていた。彼女はその説教を通して子どもたちへ悔い改めを求めるように主から語られたと感じたという。それこそが大切なことである。この聖言の「彼」とは誰のことですかという内容に私たちのことだと言える一人ひとりでありたく願う。今日取り上げられたヨシヤが衣を引き裂いたほどの激情に駆られたように、自身の問題として思うからこそ、そのようになるのである。なお、恐れ畏みながら、歩ませていただきたく願う。

Q:サムエル記Ⅰ15章35節、16章1節「サムエルは死ぬ日まで二度とサウルを見なかった。しかし、サムエルはサウルのことで悲しんだ。主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた」「主はサムエルに仰せられた。いつまであなたはサウルのことでかなしんでいるのか」というところでサムエルが悲しむと同時に、神様もサウルのことを悔やまれたと語っていますが、神様も悔やむほどだったのにサウルのことを嘆き悲しんだサムエルの姿を見るときに、サムエルにとってのサウルはどのような関係だったのかと思うのですが。

A:サウルの資質を考える時、その子ヨナタンを見ると分かる。ヨナタンの中には善きものがあふれている。ではなぜサウルはそのような要素がありながら、その中で生きられなかったのかというと、王としての資質という部分で不足してしまったと言える。サウルという王はダビデに嫉妬してしまった。その背後には神からの評価ではなく、民からの評価を重要視したからこそ、そうなったのである。サムエルはそのようなサウルの姿を見て、悔い改めを求めて彼に語った。しかし、それでもなお、サウルは民の目を気にして、真の神、主を唯一とすることができなかったのである。サムエルはサウル自身の持っていた多くの賜物と魅力を知るからこそ惜しんだのだろう。主からの憐れみは確かにある。しかし、最終的には自らの罪を認め、そこに謙ることの必要性がある。彼らには主の憐れみがないのではない。有ってもそれを受け取らないのだ。預言者はその姿を指摘しなければならない。受け取らないのに勝手に赦すということはできないのだ。だからこそ、彼を惜しむ事実がある。関係が長ければ長いほど惜しむだろう。私自身もこれまでにそのような関わりもあった。そして惜しむこともある。ただ、それでも私たちは主の御心に歩み、その信仰を曲げるわけにはいかなかった。根幹となる信仰を曲げてまで私たちは相手をこの場にとどめようとは思っていない。相手が「いらない」というならば、それを曖昧にしてまで留めることはしていない。残念ながら袂を分かつということも出てくる。曖昧なままでいれば共存できるかもしれない。しかし、それは真実ではない。とはいえ、私たちは追い出そうと思っているわけではない。ただ、話を重ねる中で相手側も「譲れない、もう結構です」ということが起こってきて、ならばしょうがないとして受け入れるということが行われているのである。哀しみもあれば、後悔のようなことを思うこともある。ただ、私たちが主の御旨を聞き、祈り、その所を歩んだ事実は主がご存じである。もちろん私達が完璧ということではない。ただ、それでもこのようなことが起こってくるということを受け入れなければならない。そうではなく、いつまでも嘆き悲しんでいると、次の者を逃す。過去を振り返り改善しようとするならまだしも、囚われて嘆いているようではいけない。主は今に目を向けるようにと語られる。そこには逃してはならない魂が与えられているからだ。なお、それぞれ歩みの中で困難に直面するときはある。しかし、主がともにその困難を歩んでくださることを信じ、感謝しつつ最善を戦い抜いていきたく願う。

Q:最近教会学校の学びの中で申命記のモーセを取り上げました。モーセはカナンに入ることが許されませんでした。人間の思いでいけば、ここまで指導者として働いてきたのだから、入ることを許されてもいいのではと考えやすいと思います。以前は私もそのように考えていたのですが、先日そのことをもう一度学んだ際に、主のご計画こそ素晴らしいのだと信じさせていただきました。今、そのような力が得られているのだと考えさせられました。

A:なぜそのような思いに導かれていったのかという具体的な話、営みが大切である。それこそ、神が私たちに悟らせてくださることなのである。それを繰り返す中で、自分の信仰を測るバロメーターとしながら用いていくとよい。これからさらに主のご計画と、恩寵が導かれるだろう。その中であなたが変えられていく必要があるのだ。私たちは「主よどうか私が信じられるようにしてください」という祈りをしてしまいやすい。しかし、それは自分が変わるのではなく、主の関わり方を変えてくださいと言っている、ある意味で不遜な態度となる。もちろん主はそのような私たちを捨てるような方ではない。ただ、そのままでいては成長がなく、変革もなくなってしまう。だからこそ、私たちは日々神の働きかけに目を向けながら考えていく必要性がある。ただ、「感謝します」だけで終わらないようにしたい。出来事がなされるまでの結果だけでなく、過程にこそ目を留めるのだ。初めはとらえ方と導かれた先が異なるかもしれない。しかし、それが主の働きかけを通して変えられるのだ。聖言を近くに置きなさいというのは、そのようにとらえ方と導かれ方が変わったときに自らに起こってくる変革を捉えられるようになる。はじめに霊的体力ということを取り上げたが、霊的体力には糧が必要になる。糧とは感謝や恵みだ。自らの変革を捉えられるからこそ、より具体的な感謝がうまれ、恵みがうまれ、さらにその過程が次の感謝への道筋を生む。そうして順当に糧を増やしていく必要があるのだ。そうしないと霊的体力はどんどんと衰え老いていく。エネルギーとなるものがないから、機能が停止していってしまうのだ。だからこそ私は夫婦で語り合いながら、今までのことを振り返り、情報を共有し合っている。その中に恵みや感謝、課題を分かちあい、共に歩んでいるのである。そのような時「あなたこう言ったわよね」と問われることがある。そしてなぜそのように思わされたかをもう一度語り、自分の中でも整理していくのである。そのようにして糧を蓄えていくことが必要なのである。また、あなたには教会学校という現場もある。同年代の信仰者と語り合いながら。信仰を互いに補完し合い、アドバイスしあい、成長が与えられていることを信じ、感謝している。

Q:マタイの福音書18章21、22節。この聖言が心に浮かびました。今まで自転車で通っていましたが、この夏の暑さで公共交通機関にかえました。そのバスで聴いたパソコン教室のCMで「私たちは同じことを何百回聞かれても笑顔で答えます」と言っていて、その難しさを覚えました。ただ同時にこの聖言が浮かび、7の70倍というと490回赦すということを思い起こされ、そのようなことこそ必要なのだと思わせられました。

A:私もそのCMを見た。しかし、それほどまでしないとパソコン教室は成り立っていかないのだと思う。実際できるかは別としてだが。ただ、私たちはそのようなものだと思う。実際何度も聞くし、何度も過ちにぶつかる。だからこそ主の赦しが必要であり、それ程までに忍耐していただいている大きな愛であることを覚える。そして同時にその愛に応えていきたいと心から思わされ、その信仰に支配されるものとならしめていただきたく願う。その憐れみがどれほどのものであるか。ギリギリのところで助けの御手があることを覚えて感謝をする。私たちがその愛を実行することはなかなかに難しい。それを不可能であるとしてしまうのは簡単だ。しかし、そうではなく、なおあきらめずに取り組まさせていただきたく願う。

Q:私の中で天国というものはまだ遠い所にこれまでありました。ただ、だんだんとその存在が近く感じさせられています。私は子どもたちに対して「このままではろくでもない大人になってしまう」という思いを抱くことはありましたが、先日の礼拝で語られた「罪を持ったままでは天国に入ることができない。」という畏れを抱くことはありませんでした。だからこそ、先日の礼拝で光明牧師が「この子どもが罪を持ったまま急に事故にあって死んだら、天国に入ることはできない」という畏れを抱いていたということが語られた際に、私もハッとさせられる思いがしました。またその裁きが神の基準で行われることにも気づかせられました。私たちがこの位でいいと思うところではなく、その神が定めるところをもう一度具体的に考えていくことの必要性を感じました。

A:私たちははじめ何もわからずただその道を歩むところから始まり、気づかせられたところを少しずつ塗りつぶしていく。もちろん一度塗って終わりではなく、再度語られたときにもう一度心にとめ、塗りなおすということも行いながら、少しずつそのわからないという状況から隙間を埋めていく。そうしていくとある程度大きく一色に塗られるだろう。ただ、そうして塗れば塗るほど、小さな隙間が見えてくる。それが課題となる。これは何なのだろうかと思い悩んでいるうちに示され、またその隙間が塗られるのだ。それを積み重ねていくことが必要となってくる。今回示されたこともまた、あなたの中で新たに塗られたものであることを感謝する。先日語られたところのことだが、最終的にその子どもが救われるかどうかは神の恩寵によるため、親がどうこうすることはできない。ただ、大切なことは何を動機として子どもを愛し、躾ているかということなのである。本当に子どもを愛しているからこそ、その罪をただし、畏れながら歩むことこそが重要であった。特に光明牧師はその問題を放置してはいけないと語ったのだ。だからこそ断罪をし、悔い改めを求めた。それを繰り返す中で、子ども自身が自らの罪というものをもう一度自覚していく必要があるのである。
先ほどサムエルのことが取り上げられたが、彼はサウルを愛していて、彼に悔い改めを求めた。しかし、そうはならなかった。ただ、サウルが天国に入れたか否かは誰にもわからない。いやもはやそのことは関係ない。その答えで「サウルが入れたなら私も入れるだろう」とかいうものではないのだ。あなたは先日の北海道への家族旅行に行く前だったが、時を逃さず厳しく子どもを叱ったと語っていた。楽しいことの前に気分を悪くしたくないからとその機会を後回しにする親は多い。しかし、そうしなかった。それこそ大切なのである。
そのようなことを繰り返す中で罪を犯すと親が悲しむということを思うほどの関係を築いていくことが大切なのだ。そしてその関係性の中で生きることこそ幸福であると子供に伝えていく必要がある。そのような人格の交わりがそこで終わらず神にもつながることを覚えておきたい。なぜ親が叱るのか。その理由は親がその事を嫌っているからでも、世間的にどうかでもない。神がお嫌いになるからである。神がそれを罪と定められているからということを子どもに教える必要があるのだ。親は子どもにとってその関係性を通して神の姿を分かり易く捉える材料を提供する存在であり、同時に神を信じる者の姿を見せる存在である。これからもかわらず愛する者との取り組みは続く、あなた自身もその中で豊かに成長が与えられることを願う。
このところに今月も変わらずに学びが導かれたことを感謝する。なおこのような時を通して、糧を得て霊的体力を維持し続けながら、戦い抜いていきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)