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質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-172 —
-- 2025年9月 開催 --
山本 咲
列王記Ⅱ 20章
北王国イスラエル、サマリヤはアッシリヤに滅ぼされてしまい、捕囚の民となった。加えて回復と共に元の地域に戻ることは許されなかった。そのような中、ヒゼキヤを王とするユダ王国はアッシリヤを退けて何とか自分たちの存続をはかることができた。それは彼らが真の神、主を礼拝することを行い、彼ら自身に変革を及ぼしたからである。それゆえに彼らは救いを受けることとなる。このところはそれの最中に起こってきた事柄である。彼ヒゼキヤ王はなぜ神に訴えて寿命を延ばして欲しいと求めたのか。それはただ単純にいのちを落とすことへの恐怖によるものではなく、彼自身がアッシリヤとの問題を含め、自分の召しを全うすることを望み、主の憐れみを信じたゆえになされた出来事だった。聖書の書かれ方が既にアッシリヤとの問題がすべて解決したかのように読まれがちだが、実際はその渦中でありどの様な結論を迎えるかはまだはっきりしない中にあった。だからこそ、彼はこのような求めを主に行ったのである。彼は主の召しを最後まで全うしていくことを求めていた。しかし、イザヤからなされた宣言は、後継者に任せ、その任を降りることを意味していた。「あなたは死ぬ。治らない」とまで言われたのだ。それでも彼は、自らの働きを全うしたいということを望み神に懇願した。それを神は聞き入れて下さり、病が癒されたのである。彼ははじめに王宮に戻るのではなく、主の宮、神の前に上った。彼は15年という限りはあるが、寿命を延ばすことができた。その故に、その中で彼はアッシリヤとの問題を終えることができたのである。しかしその先でバビロンから使者が送られ手紙と贈り物が届くということが起こってくる。その先で彼は相手に対し、好意的に接してしまった。本来自分の腹をさらしてはいけない。しかし彼は相手との関係をその様な状態で始めてしまう。先月も話していたが、アッシリヤの力は落ちてきていた。そのような中、彼は世界情勢を良く知らずに関係を持ってしまった。彼はそのような事柄においてきわめて疎い人物だったのだと思われる。しかし一方でそれこそが正しい形だった。彼は世界情勢を見ながら、どの様に政治の舵取りをして進んで行くのかというよりも、彼が行った方法こそ御心であったのだ。情勢を見極め、探りを入れて事を進めるのではなく、また一貫して他国へ助けを求めるのでもない。変わらない主への信頼によって物事を進めていることが重要だったのだ。そのようなヒゼキヤの性質に対し、バビロンは贈り物をもってユダ王国を探っていったのである。そしてそこから上手に同盟関係を築いていこうとした。結果として、彼はまんまと関係を結んでしまい、その後預言者イザヤによって完全にその事への叱責を受けなければならなかった。ユダ王国がいずれ滅んでいくその綻び、傷、失敗がこのところに起こってしまったのだ。
しかし、それこそが人間の実態なのである。ヒゼキヤはアッシリヤを退けたが、それはあくまで主の恩寵であり、義しく仕えることが望まれていたのである。あのダビデですら完ぺきではもちろんなかった。失敗も多くあり、赦しが必要だった。そこにあるのは主からの一方的な憐れみである。列王記はそのことを豊かに記している。イザヤはそのことを神の御旨として、厳しい叱責をもって伝えていることは同時に神がそのようなことを事前に排除するのではなく、厳しい預言をもって伝えている。どこまでも私たちに与えられているのは恵みである。しかしそれを侮り、ユダ王国から取り除かれないままでいたゆえに、彼らはバビロンという国に滅ぼされ、イスラエル王国同様、捕囚の民に加えられなければならなかった。そこにははっきりと、彼の息子も敵国の宦官として仕えなければならない事が示されている。捕囚の民となってユダ王国の人々も王族たちも裁きを受けなければならなかった。真の恩寵は、実態を覆い隠して無いもののようにする事ではなく真実な姿をきちんと伝えられることこそ、そしてそこに正しい変革がなされる事が重要な点となるのである。神が私たちを正しくお扱いになるからこそ、時に厳しく裁かれなければならず警報や叱責を受けなければならない。あたかも誇り高く自らが神を信じてなしたと言われるような出来事がすべて打ち消されるような現実があったとしても、それは何処まで行っても神の恩寵と憐れみによるものなのである。そこに誇るものは何もない。むしろ、神は私たちが聞かなければならないことを何一つ包み隠さずに表してくださる。父なる神は、人となられたイエス・キリストに対してもそのようにしておられる。だからこそ、彼はその御心を知ることができた。そして、全き服従をもってそこに仕えることをもって父なる神の恩寵に応えているのである。それをヨハネの福音書は豊かに伝えている。そこにこそ、私たちがあるべき姿が示されているのである。人間の力で何かができたと私たちは思いやすい。また、そのようなことで物事が動くことを期待する。しかし、それは、人間に過ぎない私たちが、ほんの少しのことを成して喜んでいるというようなものの姿でしかない。
本来ヒゼキヤはこの所で召されて天に帰らなければならなかった。しかし、神の許しを得て15年寿命が与えられた。ただ、その故に彼はその15年の中で叱責を受けることになる。一つ一つは神の御旨と許しの中で私たちは生きている。イエス・キリストの憐れみも、十字架の贖いということを神が導いてくださったゆえにいのちを得ることができたのだ。時には失敗や後退してしまうこともあるが神を受け入れてことを進めていくという生涯にこそその意義がある。そして神の御手の中、その腕のなかという近い距離にいて、その聖言を聞くものでありたく願う。19節「彼は自分が生きている間は平和で安全ではなかろうかと思ったからである」これは一見するとヒゼキヤが自分の生きている間に大きな問題が起こらないと思い安堵したという自分勝手な姿だと捉えやすい。しかし、実際は、神の恩寵の中で生きるならば、人にすぎない者である自分にも神の豊かな恵みと憐れみがあることを覚えて感謝したのである。私たちの物ごとに対する批判は私たちがどのようなものであるかを浮き彫りにする。聖言を通して示される自らの姿、実態を敏感に捉え、それによって神が語ろうとされることを捉えさせていただきたく願う。
Q:20章19節のヒゼキヤの言葉で「主の言葉はありがたい」と語られています。ヒゼキヤの言葉の背景に何があるのか。なぜ、このような箇所を付け加えたのかと思わせられるのですが。
A:年齢と共に広く知識が与えられれば聖言が理解できると思うのは間違いである。わからないものはいつになってもわからない。実際のところ神は誰かに私のことを教えるのではなく、私自身に私のことを教えてくださるのである。それこそが神の真実である。それがわかると、本当の意味で神の愛の尊さを見出すことができるのだ。ただ、私たち自身が何者かということが知らされたらそれで終わりではない。わかったらどう変革して生きていくかと考えていく必要がある。とはいえ私たちの力は自らを知ることにのみ、そのウエイトが置かれるわけではない。自身について理解していくことは1割ぐらいで、わかった自分をどう御していくのかというのが9割である。そのようにして人生を送っていく中で最後の時にどう生きてきたかが振り替えられるのである。若い時にはこんなことをして素晴らしい人物だったとは言われていても、それは神の恩寵の範囲内における出来事なのである。だからこそ、その中で自分がどのようなことを見せられ、知らせていただきながら生きるかが重要なのである。その積み重ねが人生であり、あなたの人格となるのだ。先ほどの言葉はヒゼキヤの生涯を象徴するものである。預言者はこの言葉を通してヒゼキヤを表した。預言者は神の示しに対してどう生きていくか、歩むべきかを語ることが仕事である。先日、祈祷会の中でサムエル記を取り上げた。王を求める民の前に、サムエルは神こそイスラエルの王であり、人間の王を求めるべきではないと語った。しかし最終的に神は民に王を与えた。このことに関して、ではサムエルは御心を捉えなかったと考えていいのだろうか。この件に関してサムエルは神の御心を捉え得た。しかし、民の声に神は王を与える形を取った。ただ、そこにははっきりと断罪がなされ、サムエルの背後におられる主を退けたと語られているのである。その後、民は悔い改めた。サムエルはそれに対し民の赦しを祈り、その召しを全うしようとした。そこで王政が確立され、そこに神の御旨を全うすることを祈ったのである。このようなことをするのが預言者の役割であった。同じようにこのところでもヒゼキヤにこれから取るべき歩みを示しながら、本来私たちはどのように生きていけばよいのかということを表し続けているのである。
民全体がどれだけ神の御心に生きるかということが重要になってくる。生きられなければ、裁きが来る。アッシリヤは退けることが許されたが、バビロンが刻一刻と迫っていた。それこそが彼らの現実だった。これこそ彼らの罪に対する裁きであった。ただそれで終わらず、帰還が許されることもまた告げられている。それは彼らの罪に対する刑罰として行われた。現在は新約の時代として、イエス・キリストがその罪に対する刑罰を十字架で受けてくださった。イエス・キリストの大いなる恩寵が新約にはあるのである。そのことを私たちは十分にとらえ、感謝していかなければならない。イエス・キリストの贖いの恩寵のすばらしさを知れば知るほど、どのようにそれを捉え生きていくか、なお考えていかなければならないのである。
Q:イエス・キリストの三年半と言われている公生涯の歩みを考えたときに、主の弟子たちの生活を支えた経済活動はどのようになされていたのでしょうか。
A:実際はイエス・キリストの思いに生きたマリヤとマルタとラザロのことなどが書かれている。マリヤのささげた香油は300デナリだった。1デナリは現在の金額に照らし合わせるとすると約1万円、300デナリは300万である。それはきっと彼女の花嫁資金だったことが想像できる。ゼベダイの子のヤコブやヨハネも弟子だが、彼の父は船をいくつも持っていた漁師の頭だったと思われる。そのようなところから考えると、彼らをサポートするような人物は多くいただろう。ただ一方で5000人を養う時には彼らを食べさせるお金はないと弟子たちが話している様子がある。決して湯水のように経済が天から降ってきていたわけではない。その所で彼らを支えた者たちがいたことは確かである。ユダがお金を預かっていたが、お金の問題が登場してくることからも、現実味が感じられる場面であろう。最初から、めちゃめちゃだったわけではない。しかし、多くの事柄を繰り返す中で、問題が起こってきたのである。
それらは今もキリスト教会を支えている。しかし、日本の教会は献金が整わないという問題が多くある。牧師の家庭を支えるだけの献金が集まらないのだ。豊かな大きい教会は別として献金から一部を教団に送ってということがあるがしかし、今は「自分のところもままならないのに、ほかのところに捧げるなんて」という話になっているような状況でもある。それによって教団にすら力が無くなってしまった。旧約の時代にも同じようなことがあった。それはレビ人の存在である。彼らはレビ人を養うということが示され求められていた。しかし、困窮してくると、レビ人に支払う分をカットし始めた。その結果、レビ人はその場を離れ、その故にレビ人から教わり養われるはずの霊性が整わず、悪循環へと陥り、結果としてさらに困窮していくということを迎えるようになる。私は献金で生活している側だが、主に捧げるということを行わずして良いところばかり取るということはできない。主はそのすべてを捧げろとは決して言っておられない。聖書には10分の1と語られている。残りの9割は全て私たちの物にしてよいと許可まで下りている。それさえ捧げておけばよいのである。もちろん生活費のすべてを捧げたやもめにイエス・キリストが目を留められたように、主は捧げる者の全てをご存じである。心からの捧げものこそ、主に喜ばれるのだ。しかし、ときにその一割すらも人は惜しむ。すると結局は本来得られるはずだった祝福を取り逃し、そればかりではなく、養われていない霊性が困窮を生み出し、どんどんと貧しくなっていく。そして「主体的にささげる」ことによって得られる感謝に至るのではなく「一方的に搾取される」ことによって不満と心の貧しさの中に飲み込まれていくのである。
Q:ヒゼキヤが病にかかり死にかかったのはいつでしょうか。
A:40歳くらいだと考えられる。早かったと考えやすいが、当時の王の年齢を考えるとそのくらいであると考えられる。今は寿命が延びてきて100歳を超える人々も多くいるが当時のことを考えるとそのぐらいが予想されるのだ。年齢というと、実はヒゼキヤは伸ばされた15年の寿命の間にマナセが与えられている。もちろん神のご計画が変わるのかとか、どちらが優勢かとか、神の御心はどこにあったのかとか、そういうことを言うものではない。この問題は突き詰めて考えていくと難しい。また本来はこの出来事に関してはしるしも必要なことではなかった。ヒゼキヤがどのような人物だったかということを表そうという筆者の書き方もあるだろうと予想される。ダビデにダビデの印象があるように、王たちにも筆者は印象を映し出そうとしている。預言書にはほとんど何も触れられていないで終わっている王様もいる。どんな印象も書かれずに終わっているのがその人物の生涯を的確に表している。年数も記され、いくつぐらいかということがあらわされていることを考えると、彼の印象を語ろうとしたと言えるだろう。15年としっかりと示されていたのは、ある意味で興味深いと言えるだろう。そのような印象を持ちながらとらえていくのも面白いだろう。そこにも神の人格性が見え隠れする一面だと言えるだろう。神が楽しまれるというと言い方に語弊があるかもしないが、人格的な方である印象があらわされているのである。このところは神がどのような方か捉えるにも良い資料だと言えるだろう。
神を愛し、隣人を愛しなさいと語られているが、それは神とのかかわりによって神を知るだけでなく、人と関わることでその中に神を見るためでもあるのだ。人とのかかわりをいきいきとしていくことで生まれる豊かさがそこにあるのだ。むっとして人の荒ばかり探そうとしているようだと、喜んで生きることはできない。それでは、関わる人たちに結局は神を見せることができない。ヒゼキヤはどんな人だったか。神殿を戻そうと必死になった当時、お金をかけるべきなのは軍や見張りの塔だと言われ、神殿にお金をかけることは悪手だと思われていた。しかし、彼は一途にその必要を信じ続け行動した。それゆえにユダは主の守りを得ることができた。神殿を立て上げることは主を愛しての行動だったと同時に、民を愛する行動だった。初めは理解されなくとも彼は困難に立ち向かい、その部分をしっかりとあらわしつづけたのである。いつの世にあってもここに信仰者に対する慰めが与えられている。
Q:質問ではないのですが、ヨハネの福音書3章16節の聖言は私にとって今まで遠くにあるものでした。何かの機会で開くこと、心に留まることがあっても、どちらかというと遠くから眺めているような感じがしました。しかし、前回のこの会で「神様は独り子をお与えになったほどにということから、あなたも子どもをもってわかったでしょう」ということを示され、遠く感じていた箇所が突然近く感じ、自らが変えられたことを実感し、賛美などもより豊かに示されるようになりました。主が与えてくださったことを覚えて心から感謝をしました。
A:それはとても大切なことであり、信仰の営みである。あなたは産まれた時から教会にいたわけではない。しかし、その瞬間は必ずそれぞれに与えられる。年を取ればよいというわけではない。だからこそ自分を霊的事柄に触れさせていくことが大切なのである。そのようなものが豊かに働くことを通して、より信仰が豊かになっていくのである。今この教会に求道者が来ているが、彼は子どもを大切に思うが故にその様にしている。先日、彼は次男とこの礼拝の席をしめようとしたが、子どもが落ち着かず、礼拝に参加することに辟易(へきえき)してしまった。その事でいったん彼はまだ礼拝は早いかという結論に至り、そのことを相談しに来た。だから私は、今早いからと後にずらすとその分どんどんと教会にいる理由が必要な年齢になってしまうと語った。最終的に彼は長男を隣に置き次男は教会の先生が礼拝中に見ていることになった。彼は子どもを理由にその席をしめているが、このところに主が働いてくださることをなお祈っている。それはどの様な形でおこなわれるかわからない。しかし、少なくとも全く触れない中では出会うことができないように、この教会で神、聖言、賛美、祈りに触れていく中で示されていくことを願う。
話は変わるが、科学が今後発展していくと人間はどんどんと長命になっていくと言われている。そのゆえに死ななくなる時代が来るかもしれないということも聞く。フィクションでもそのような作品が多い。私はある映画を見た。そこでは自分の意思をコンピューターに移すということがなされていた。私はその作品を見終え考えた時に意思の移動ではなくコピーがなされただけであると思った。私と同じコピーが現れたら、周りの人は私が死んだとしてもそのコピーを見て「山本牧師」が生きていると思うに違いない。しかし私自身の考えとしては自分が死ぬことに変わりはないと思う。私たちが霊的存在であるというのは意思が継続し続けることである。どちらにせよ死というものは私達からは切り離せないのだ。いくらどこかに思想や経験、その他色々なものを完全な形で記録を残せたとしても、私から離れた時点でそれは私ではない。周りがどれだけその存在を私だと思うとしても、私にとっては私ではないのだ。そこから私は、生きているということは意思し続けていることであると捉えた。私が意思することによって私という人格が生きるのだ。どれだけ同じに見えてもコピーが意思してもそれはコピーの意思であり、私の意思ではない。なぜなら私から切り離された時点でコピーが私と同じようにとらえ考え、意思しているかはわからないからである。同じ価値観を持ってはいるし、同様の思考の仕方をするかもしれない他人。それがコピーだ。神は意思を与えられた。それは私を私に至らしめるものであり、同じものはない。その意思をもって日々を過ごすことそれが生きるということなのだ。よく山に登って生を感じるという人がいる。私にとっては神の御旨に生きることが生きていると感じることだ。それは主の深き愛を感じるとより一層豊かに感じるのである。そのようにして、私たちは意思を持ち続ける中で、何らかの生きる意味、喜びを見つけ出し、それによって私たちの生き方は変わってくるのだ。そう考えるならば、互いに影響を与える状況、一緒に生きているということは共に生命を分かち合うことであり、それによって影響を与え合い、喜びを得て、感謝に至る大切なものなのである。姉妹の霊性を豊かにされたように、私たちの霊性が誰かに感謝と喜び、共感を産む大切なものとしてこれからも育まれていくことを願う。
Q:仕事の話なのですが、今務めている会社で方針として新しい顧客を集めるようにと言われています。というのは現在までシステムを担当してきたところが倒産してしまったり、経済的理由で辞めてしまったりということが起こってきたからです。しかし、私は何処か気が進まず、すでにいるお客さんを大切にするべきではないかと思ってしまいます。新しい方とは関係を築き始めるのも、問題も起こってくることもあり、相手のことや反応がわからずプレッシャーを感じることも多いです。先日午前中が新しいお客さんとの関りで気苦労が絶えず、午後は気心知れた方とのやり取りで落ち着いてできました。ただ、新しいお客さんを増やしていかなければ、現状維持であることも事実だと思い、新しいところに踏み込んでいく必要性を示されたように感じました。それこそ、自らの成長にも感じ、信仰面でもそのように新しいところに踏み出すことが大切であると感じます。
A:あなたは先日40歳を迎えたが、もう10年そのようなことに取り組む必要があるだろう。新しいことに取り組むのは良いことである。それが子どもたちの育みにもつながっていく。私はいい人で通っているが、時に「あなたがだめなら次の代に期待するしかないね」とはっきり言う時もある。それはどうしても自分を変えられないということが起こり、その人のありのままでいきついてしまうからである。反面教師が見えているならば、自分がそうならないようによく注意していくべきである。問題をどう変えていくのか、どう取り組んでいくのか、見えたことをただいやだというのではなく、その要素が自分にもあることを自覚し、取り組まなければならない。少なくともあなたが取り組んだものは子どもの代の飛躍になる。しかし、何も取り組まなければ、子どもへの負担がより大きいものになる。そのままではだめだということを自覚しなければならない。自分の性質だからしょうがないとしてしまうのではなく、神の憐れみを信じながら、取り組んでいかなければならない。それが父親の仕事である。
対して母親は家を乗っ取るのが仕事である。信仰者の家は続いていく。同じ要素ばかりで凝り固まってしまうのではなく、そこに他者が結婚を通して加えられるからこそ、良いものへと変えることができる。とはいえ、悪いものがないわけではない。神が示される罪や過ちを悔い改め是正するために信仰によって取り組むことが、主から導かれる変革なのである。愚かしさや罪深さを受け継がせてしまうことは本当に心苦しいだろう。だからこそ、自らも是正と矯正を受け入れながら真実に子どもに向かうことができるのである。あなたたちの姿を見て、子どもたちとどのようにかかわっていくべきかと考える人々もいるだろう。その信仰に惹かれるものがあるのだ。
仕事は大変だろう。それは私も重々わかる。しかし、乗り越えていかなければならない部分だろう。「そこだけは別問題です」というものではない。それもあなたの人生の中で大きなウエイトを占めるものだ。その先に変革があることを信じ、なお取り組んでいただきたい。
今月もよい時が持てたと感じる。日々の中で自らが信仰者であるということを外すのではなく、世の中にあってこそ信仰者として光と香りを放つものであっていきたく願う。