JSF&OBの部屋
キリスト者の一致(9)~主は一つ~
石井 和幸
この箇所が示す「主」とは「イエス・キリスト」のことを示しています。「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:22,23)と、先の章にてパウロは「キリストのからだである教会」を示しており、さらにエペソ4章4~6節にて、父・御子・聖霊…三位一体の神が働かれる教会の一体性を示しました。著者ロイドジョンズは、ここで受肉されたイエス・キリストが唯一の神であり、救い主であることを聖書のみことばをいくつか挙げて強調しています。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)
「キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました」(ピリピ2:6,7)
「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」(へブル1:3)
…著者は、神であるお方が人として私たちが生きる世界にて仕える者の姿をとり、主なる神を信じる者には聖霊の導きにより、「神の本質、ご性質」が目に見えて分かるようにしてくださった驚くべきことに目をとめよ!と指摘します。私たちが倣うべきは救い主イエス・キリストであり、さらに著者は、キリストは「一つであり、分割されない」ことに注意を向けるよう導きます。
「あなたがたはめいめいに、『私はパウロにつく。』『私はアポロに。』『私はケパに。』『私はキリストにつく。』と言っているということです。キリストが分割されたのですか・・・」(コリントⅠ1:12,13) というみことばを示し、例としてキリスト教と他宗教の信者が同席する「世界宗教会議」といったようなことは、「唯一の神」を信じるキリスト者にとってはあり得ないと著者は指摘します。さらに、私たちの信仰生活においても、「イエス・キリストが私の主」であるはずなのに、都合の良いときだけ神を信じ、自分の勝手でときに神を離れて「自分が主」になってしまっていることに警戒を促します。
私は、イエス・キリストを「私の主」とし続けること、そしてキリストから目を離さないでいることが今の自分に必要であることを改めて感じます。私自身も、我が家の2人の子どもたちも生まれたときから教会のなかで「唯一の主」への意識を養われ、偶像を避けていく姿勢を教えられて来ました。その恵みと憐みはとても感謝に思います。ただ、いくら外面的にはそのような信仰の姿勢を表していたとしても、本当に親であり、家庭を司る私たち夫婦の心がイエス・キリストに向いているだろうか、イエス・キリストの教えに倣い、今も生きるキリストの愛を受け、実践しているだろうかが具体的に問われています。8月には私たちの教会で献児式が執り行われましたが、子育ても信仰者にとっては、「主から託された子ども」を育てることであり、自分の思うままにせず、かつ勝手に「旨くいった、残念だった・・・」と主観的な評価で終わらせてしまうものではないことを改めて覚えます。この年も刈り取り、締めくくりのシーズンに入りますが、なお聖書の教え、聖霊の語りかけを遜って伺うものとさせていただきたく思っております。
(仙台聖泉キリスト教会 会員)