同労者

キリスト教—信徒の志す—

― Q&Aルーム ―

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-175 —
   -- 2025年12月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅱ 23章

 いよいよユダ王国の末期に差し掛かる。またこの書にはヨシヤという人物を筆頭として行われた一つ一つの契約と悔い改めが記されている。聖書はあえてこれほどのボリュームを割き、契約の書を見つけたところからその所に書いてあることを守るために行われたこと、そして契約に反しているところを取り除くためにどのようにしたかなど、一つ一つ大切に取り上げている。聖言が一言でおわるのではなく、まさしくここに書かれていることがすべて正しく行われるべきであることを示したのである。ここには、特に悔い改めの詳細が書かれている。それはここを読むときに私たちはそれをどのように行っていくべきなのかを知ることができるのである。また、ここまでの間で行われた主の忍耐、赦しを読み取ることができるのである。
悔い改めはもう二度と行われないようにと徹底して行われていた。ヨシヤ王にとっては偶像礼拝と間違えやすい場所を取り除くことや、そこで偶像の祭司を追い出すなど、その時ばったりの悔い改めではなく、二度とできないようにという行動がとられていた。そのために行われたのがその場所を徹底的に汚すということである。彼は神殿を復興しようとした際に見つけた契約の書の存在に喜びを抱いたが、その内容を確認して自分たちの行いがあまりにも神を信じる姿勢から外れているという現実を目の当たりにした。だからこそそれらを一つ一つ改めていくと同時に正しい形で礼拝をおこなうようになったのである。その初めに行われたのが、過ぎ越しの祭りである。この祭りの起源は出エジプトの時代にさかのぼる。当時のイスラエルはモーセから告げられたように門柱とかもいに子羊の血を塗るという行為を行い、食事の一つ一つに至るまで告げられたとおりに行った。その故に主の霊はそのしるしが行われているところを過ぎ越され、行われていなかった家では長子が失われるということが起こった。これは罪の裁きが行われた故である。そのため、この血を塗るという行為のために屠られた子羊こそ、贖いの代価であり、それによって滅びをまぬかれるということが起こったのである。ヨシヤ王はこの出来事を覚えて記念し行う過ぎ越しの祭りを改革に合わせて行ったのである。それまでになかったほどのことがなされたことが記されているが、これも自分たちがいかに罪深いものであり、そのために贖いの血潮が一方的な憐れみによって与えられたという真理を見出していたからである。改革は徹底的に行われていった。しかし、彼らの罪は裁きを受けなければならないところまで来ていたことを忘れてはならない。だからこそ、彼らは悔い改めをすると共に、刑罰の中にも入らなければならなかった。しかし、そこには神の豊かな憐れみがあり、回復がなされていく。この時代にはエレミヤという預言者がたてられ、彼がそのことを示し続けたが、ヨシヤ以外の王は彼を認めようとせず、彼を迫害し、その言葉をないがしろにした。その故に彼らの裁きが断行される事となった。ヨシヤは心から悔い改め、改革を行ったが、それに付き従う者たちは王の後を追うという形だけのものであった。その故にヨシヤの死後たてられた彼らの息子たちは働きを全うすることができなかった。初めに建てられたエホアハズは3か月余りで退けられることとなる。そしてのちにパロ・ネコが傀儡としてたてたのがエホヤキムであった。彼らの中に正しい在り方は見出し得なかったことが23章に記されている。そして、エルサレムに滅びがやってくるのである。ならば悔い改めは無意味だったのかと思ってしまいやすい。しかし、そうではないことも見出していきたい。そして、それほどまでに汚れというものが私たちを蝕み、簡単に癒されるものではないということもまた知るのである。この時代にあってもどのように神を恐れ生きていくのか、どのような形で履行されていくのだろうか。新約の時代に生きる私たちはイエス・キリストを信じる信仰が導かれている。これこそ、私たちに許され、導かれている唯一のことであることを新約聖書は語る。主イエス・キリストを信じ、その愛を受けたものとして、主が期待されている愛を行わせていただきたく願う。私たちはその新しい約束のもとに自らを置き続けながら、汚れから畏れて離れるとともに、必要ならば悔い改めを行っていくことが必要なのである。それによって主の御側で生きる私たちでありたく願う。

Q:ヨシヤの行った改革の中で「骨で満たした」「骨を焼いた」ということが書かれていますが、骨というのは何か意味のあることなのでしょうか。

A:その行動の中に汚すという意味が込められている。本来忌み嫌われる行動なのだ。それは、一つの価値観のようなものである。当時の習慣的に汚いもの不潔なものとして扱われる行為であり、そこから回復することは不可能と言われるようなことを行ったのだ。それゆえに再度そこで祭事を行うには再度作り直さなければならなかったのである。これこそ、異国の宗教に対してヨシヤが行った徹底的な対策となった。例えば唾を吐いて相手を汚すということが文化としてある。それはその本質的な意味を知らなければ、汚いという嫌悪感はあっても、侮辱的な意味はとらえられないだろう。そういう意味でヨシヤの行為は文化的にも民の間に知れ渡っていた行為なのだ。最上級の禁止行為と言えるだろう。また、それが、ただの侮辱に終わらず、汚染されたと考えられる行為を取ることによって、二度とその場を異教の宗教が神聖なものとして扱えないようにしたのである。

Q:ヨシヤは徹底的に改革を行ったことがわかりますが、それでも、次の代には続けられなかった理由は何なのでしょうか。私自身も自らの信仰生活の中で徹底的に行わなければと思いつつも、できずに中途半端になってしまうことがあります。どのようにすればよいのでしょうか。

A:実際のところは自らの営み次第であると感じる。私の主観的な考え方だが、「これに関しては徹底できます」ということではない。限定的になってしまうのではなく、少しずつその範囲を増やしながら行くことが大切なのである。逆の言い方をするならば、「神を信じ、畏れて生きる」ということを徹底的にしていくことによって様々な面でほかにもそれをしなければならない部分が出てくるのだ。とはいえ、鶏が先か卵が先かという言葉もあるように、神への信仰を徹底していないからできないのか、自分の生活がままならないから神への信仰が徹底されないのかというよりは、どこからか始めていかなければならないのだ。ライフスタイルというと少し軽く聞こえるが、私たちの信仰は普遍的であり、すべてのことに対して神を信じて生きているということが活かされていかなければならない。私たちの教会にはクリスチャンホームなどに産まれたものが多い。この日本においては大変珍しいと言えるだろう。だからこそ、早い時期、若い時から神が信仰生活を豊かに導いてくださっているということの意味を深く考えていきたく願う。そうするときに、私たちはその整っている中で、感謝を覚え、徹底して事に当たって生きていくことができる。私たちはそのようなことを大切にするからこそ成果、効果のようなものも経験していく。それゆえにこの集い自体が一致した考え方、価値観を共有し形成していくことができている。集いとは教会だけではなく、家庭という単位でもいえる。互いがその中で同じ価値観を持ち、一致して事を進めるときに力を発揮し、より大きな結実へと導かれるのである。今世の中は個人主義で、一面リベラルな考え方が広がっている。しかし、それにはリスクが伴うことを忘れてはならない。私たちはそのリスクへの対応として、ある程度の束縛や強制を必要だと考え、そのうえでさらに徹底していくということの必要性も説いている。それは周りから見るときに一面「厳しすぎるのではないか」と言われることもある。現代では特にそのように発言される機会も多いだろう。しかし、だからこそ、そのような中で人を畏れるのではなく、神を畏れて信仰者として歩むことの重要性を見出すのである。しかし、ときに「このことはどうなるのか」という先の見えないジレンマでじりじりとした日々を歩むこともある。それでも、そのような中に自分を置いておくことによって主からの御声が聖霊を通して語られるのである。 私たちは聖言を正しく読むときに憐れみの存在を見出す。ただ、同時に、そこには私たち自身が生きるために様々な選択を余儀なくされている事実がある。しかし、現実世界で語られる公の話は憐れみのところで話が終わる場合が多い。神の憐れみがあるからと漫然と構えて何もしなくていいというわけではないことを理解していかなければならない。同時に私たちは主がかけてくださった憐れみ、その「手間」というものを知っている。だからこそ一面これだけの愛がかけられているのにと自らに絶望してしまう時もあるのだ。また、近くにいる者たちのそのような姿を見るときに同じように感じたり、時には怒りを覚えたりもする。それほどまでの愛を理解していることが重要であり、だからこその応答をしていくことが必要なのである。私たちの生活の中で難しいことは自らの一番側近くにいる者の前で信仰者として真実に生きることである。これを取っ払ってしまうならそれはどれほど楽なことだろうか。しかし、私たちはそれをしない。それでは愛する者を主のもとに繋げることができないからである。だからこそ、必死に御旨を捉え、そのなかを信仰者として生きるのである。

Q:23章のところで確認だったのですが、エジプトのパロ・ネコがエホヤキムを王としたのはどのような策略なのですか。

A:アッシリヤを助けるためにパロが向かった際、そのことをヨシアに伝えたのにもかかわらず、彼はパロに戦争を仕掛けた。しかし、そこで負けてしまう。パロはその後の戦争で負けるが、ユダを手に入れた。その際に彼の傀儡として選んだのがエホヤキムであった。それは油注がれた弟であるエホアハズが王に選ばれていたが、優秀だっただろう彼を扱うよりも、彼らに退けられていたエホヤキムを用いた方が、操りやすかったのだと考えられる。

Q:箴言21章3節「正義と公義を行うことは、いけにえにまさって主に喜ばれる。」と書かれているのですが、正義と公義とはどのように違うのでしょうか。

A:ある程度同じ理解を群れ自体がしていない場合、そのように言葉を使い分ける意味はあまりない。だからこそ、正義と公義ということの意味を解くところまではいかない。もちろんいずれそれを説教で取り上げるという時がくる場合はじっくりと時間をかけて、整理してその在り方を浸透させていく必要があると考える。もちろんそのように自分で考えを深めていく中で言葉を使い分けることや、実際ある意味合いを込めて語ることはあってよいと思う。もちろん公で話す際は言葉に気をつけ、吟味する必要性はあるし、そのひとのルーツを見ることにもなる。言葉というのはそれほどその人を表し、だからこそ、そのニュアンスを一致させていくと、言葉一つでその印象を伝えることができるものになる。私の父は「さようなら」の代わりに「ごめんください」と言っていた。それに疑問を持つことなく私も使っていたのだが、実際は新潟の方言らしい。父は新潟にルーツがあるため、知らないうちに浸透していたのだろう。またある姉妹はインターホンで最初に自分の名前を名乗りながら「○○でした」という。一般的には終わるときに「でした」というが、山形ではそのように言うのが通常にあるらしい。そのように言葉にはその人の生きてきた軌跡も見え隠れする。だからこそ、大切に扱っていく必要がある。

Q:聖書には葡萄酒を呑むということが書いてありますが、お酒を呑むことは罪ではないのですか。

A:罪ではない。しかし、私たちは教会でお酒を呑むことに対するリスクを考え、呑まないようにしている。この日本でキリスト教会が増えていったのは第二次世界大戦後である。その当時はそれこそ戦後の苦しみから逃れるためお酒を呑む人が増えていた。その末にアルコール依存症やそれによる暴力に走る人がいたのだ。しかし、その先で教会に出会い、苦しみから逃れるために飲酒に走る必要が無くなるということや、キリストを信じることによって悲しみから解放されるためにそのようなものを排除するようになったのである。もちろんお酒によって得られる喜びを強調する人はいるかもしれない。しかし、その反対側にあるリスクを私たちは考えている。今は飲酒を強要されるということがアルコールハラスメントとして取り上げられるようになったが、一昔前それは仕事につきものだった。だからこそ、それを断ると「付き合いが悪いな」と言葉を選ばないならばいじめのような状況が起こっていたのだ。しかし、それでも「私はお酒を呑みません」と生きたクリスチャンが多くいた。そして、そのうえで何らかの不都合ができてきたとしても、「神が私を必ず守ってくださいますから」とその信仰に生きたのである。その先で彼らは助けられた。もちろん簡単にすべてがクリアとはならなかっただろうけれども、それだけが理由ではないとしたり、それ以外の導きが与えられたりと、その先でそれぞれ信仰によって乗り越えてきたのである。リスクの話をするときによく崖の話をする。崖の下をのぞけば、崖の下に落ちる可能性も出てくる。また、落ちないだろうとたかをくくってぎりぎりを歩いていれば、何かがあって落ちる可能性もある。だからこそ、私たちは崖から離れていること、リスクを減らすことを語っている。もちろんそれでもリスクがなくなるわけではない。ただ、少しでも減らしていこうとしていうのだ。だからこそ、イエス・キリストを信じて、その教えの中を生きていこうとしているのだ。あなたも私と一緒にジムでサウナに入っているが、そこで8分4回という時間で様々な話をしている。それもリスク管理だと思う。そこでコミュニケーションをとっていくことを通して、あなたにも導かれる真理がある。人間は忘れる生き物だから10の話をしても一割ほどしか残らない。しかし、100もの話をすれば、10は残る。そうして残される様々な話をあなたの中で活かしていってほしいと願う。

Q:仕事であった話なのですが、今私の会社ではシステムのサブスクというのが多くなってきています。先日ある得意先でサブスクを利用されている会社があるのですが、本来一か月などで契約できることを一括でしてくれるような会社で、良い関係を築いているところです。以前そのお客さんに相談されていたことがあり、得意先だったからこそ、本来はお金をもらうことを無料の範囲で直すということになった。しかし、私の中で無料だからこそ優先順位が低く、なかなか手を付けられずにいました。そのうちにそのまま一年がたってしまい、改めてもう一度その得意先から話がされたとき、急いでやらなければと取り組んだところ30分ほどで終わってしまいました。そのときに先日礼拝で隣人を大切にするというのはわずかな時間でできることを惜しまないことが大切なのであると語られたことと結びつきました。そこでこのようなことの積み重ねこそが本当に大切なことであったと実感させられました。

A:一番身近な人たちが不真実だと心に残るのはそのわずかな時間を惜しむからだ。ほんの短い時間にもかかわらず私たちは億劫に思いやすい。しかもそこに金銭が動かなければなかなか動けない。ただ教会は金銭が動かない。だからこそそのことを訓練する場にもなるのである。先日の伝道コンサートの際、ある兄弟が中学生の兄弟に対し、準備に不備があった際「それでは困るよ」と伝えていた。それに中学生の彼は「はい。すみません」とすぐに返事を返していた。私はその中学生の彼がすぐさま返事をしていたことに感動した。彼らは無償で働いているにもかかわらず、注意も受けているのだ。しかし、それに反抗するのではなく、すぐさま自らの非を認め、改善を促されたことを受け止めていた。これはそう簡単なことではない。ましてや多感な時期である。しかし、彼は素直にそれを認めていた。これこそが教会で培われる大切な感性なのである。だからこそ、それは社会に出てからも通用するものになる。そしてその姿を見る者たちに強い印象を与えるのである。しかもそれは、特に身近なもの、愛する者たちにとって重要な姿となる。あなたがそのことを説教と合わせて結びつけられたこと、その光景を神が導いてくださったことを感謝に思う。私たちの日々の動きと聖言から語られることはそう単純に結び付けていくことはできない。しかし、わずかなところからでも日々蓄えることを通して、一致してくる部分を見出すことができる。それこそが霊性を養うということである。この聖書を学ぶ会もその一つとして、豊かに導かれていることに感謝する。そして、これからも一人ひとりに御旨が示され、それに従うことを通して与えられる祝福を期待する。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)