ショートコラムねだ
— 聖化と飲酒 —
「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ 5:18)
クリスチャンと酒、時々議論になりますが、冒頭のみことばは特に聖化と酒が関係していることを示しています。御霊に満たされるとは聖化そのもので、それと酒が関係していることが述べられているからです。
私たちは、特に教えられなくてもいつのまにか常識としての知識が身につきます。それは一般の世の中の常識もありますが、クリスチャンとしてキリスト教に生きているとクリスチャンとしての常識といえるものが身につきます。その常識に従って酒は問題ないと思うことでしょう。特にイエスも酒を飲まれた、パウロはテモテに「胃のために少量の葡萄酒を用いなさい」と言っている、ということが酒、容認の根拠とされる事でしょう。
しかし特定のテーマになるともう一度聖書を調べてみる必要があります。今回はとくに「聖化」(「聖潔」「きよめ」「キリスト者の完全」を同一の内容を指すことばとして扱います)に生きるとき、酒をどう扱うべきか、聖書に立ち返って考察して見ましょう。
一般の世の人の規律としては、いわゆる「深酒」「酒乱」といったもの、酒がやめられない「中毒」「依存症」状態でなければ何も問題ない事でしょう。
では聖書に立ち返って考察します。
「酒によってはいけません。」という事が示されているのはペンテコステの後です。
旧約の時代はもとより福音書の時代までそれはでてきません。
福音書の時代は「モーセの律法のもとに生活していた」ことが忘れられています。イエスは生まれて八日目に割礼をうけ、モーセの律法のもとに生活したのです。弟子たちもそうでした。ペテロがコルネリオをキリスト教に迎え入れるとき、モーセの律法に食べてはいけない汚れたものと規定されているものを「食べなさい」と神に示された時「私は汚れたものを食べたことがありません。」と言っています。それは明らかにモーセの律法に生きていたことを示しています。ですからイエスや弟子たちが酒を飲んだことは、新約の時代の私たちにはあてはまりません。
神は旧約の時代に、地上のもの、物質のものを用いて例をしめされ、新約の私たちがそれを「霊的に」解釈すると意味が分かるようにされました。イエスの教えのなかにそれが多くでてきます。
旧約の時代に酒について示されているのは「祭司の規定」にあります。祭司は幕屋や神殿で神に仕えるとき、酒を飲んでいてはいけませんでした。それが新約の時代の私たちとどのように関係するのかといいますと、ペンテコステの後、それ以前とは異なる意味で聖霊がクリスチャンを潔め、その内に宿り、それによってひとは神の宮、神殿になりました。ヨハネの福音書に「イエスが栄光をうけられるまで聖霊は注がれていなかった」と、新しい時代の意味を教えています。イエスが栄光を受けられたのは、十字架の贖いを完成され、死んで葬られ、復活し、昇天されて父の右に座した時です。それ以前の「人間となられたイエス」は、すべての権威と栄光を父なる上にお委ねし、私たちと同じ「真の人」になられていたのです。
クリスチャンは神の宮、神殿となっただけでなく、イエスの体となり、イエスの祭司職も行うものとなりました。それは旧約の時代の祭司のように、特定の時に神殿で仕えるのではなく、常にその職にありつづけるのです。ですから聖霊を受け、聖化の恵みに与ったひとは常に酒を飲んではいけないのです。
以下は全くの余談ですが、酒には強い依存性があります。
健康のためと考えて「薬用酒」なるものを飲んでいるとアルコール依存となり、止められなくなります。今は栄養補助食品があふれている時代です。薬用酒に頼らなくても同種の栄養成分をふくむものは一般の栄養補助食品に存在します。「まちがっても」薬用酒に手をつけませんように。それはアルコール依存への入り入り口ですから。
健康のためだからテモテと同じなどと考えませんように。テモテは住んでいたところの「水が悪かった」のです。
私の家の水道の水は悪い?
水道の蛇口に取り付ける浄化装置はたくさん売られています。なんとか酒を許容する理由を得ようとしてはいけません。