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質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-173 —
-- 2025年10月 開催 --
山本 咲
列王記Ⅱ 21章
ヒゼキヤの時代が終わり、マナセという王の時代になる。ここにはその王がどのようなことをしたかが書いてある。そしていよいよ神と預言者を通して語る聖言が、イスラエルに続いてユダも滅びへと向かうことが示されていった。彼らの望みとして持っていた神の祭壇のある神殿も破壊され、捕囚の民となることを示した。聖書も歴史として記している部分もあるが、取り上げられたところはただの歴史的出来事だと捉えるべきではない。その背後におられる神が、何を計画し、何を根拠としてことを行っているかが記されている。預言者の言葉や、彼の聖言への従順を通してそれらが記されている。サムエル記、列王記は預言者の書である。預言者がその時代のイスラエル(これは南北分かれた後のイスラエルのことのみに収まらない全イスラエル)がどのように神の御旨のなかを選民として国家として、王を中心にどのように生きたのかがあらわされている。ヒゼキヤまで多くの内容が記されてきた。それはアッシリヤに対峙していくかということも勿論あるが、実際はヒゼキヤという王が神を信じる中で必死になって事柄を推し進めている姿、その中にある書き記すべき出来事が多くあり、それを豊かに盛り込んでいる。21章に入り、マナセの治世が始まり、55年という長さが記されている。しかしそれに対して、記されていることはほんのわずかである。その内容も彼が、悪に染まったということのみが記されている。ここに預言者は何を表そうとしているのだろうか。マナセの問題を考える時、人間の本質にもたらされた罪による人格の破壊、そこから破滅を生み出しているということである。そしてその回復に必要なものはただ主の恩寵のみである。新約の時代に至り、イエス・キリストの十字架の贖いによる恩寵というものを知っている私たちにおいては当然と言われることだが、知っていたところで、そこで終わってしまっては意味のないことになる。知るだけでなく、信仰者として必要な営みがそこにあるはずである。繰り返しになるが、自力ではできないようなことに主が介入されている事実がそこにはある。罪の裁きということだ。それは戦争や、飢饉、生きる上で恐ろしい困難が起こってくる。平穏に暮らせていれば喜ばしいのに、なぜこのようなことが起こってくるのかと異邦人は思う。話が二転三転するようだが、この異邦人というのも神を知らない人々のことが語られている。しかし、一方で知っていながら、そこで終わっている者たちもいる。戦争や災害などでなぜ生命が失われなければならないのかという視点もどこか異邦人的である。キリスト者と言われる人の中にもこのような考えを持ち続けていることもまた事実だ。それは人間の本質的な問題から回復していないことを表している。結局はイエス・キリストが地上に来られ、贖いを成し、復活し天に帰られたという事実とそれを信じる信仰の根本的な部分を受け入れていない事実が、先ほどまでに語った考え方、価値観に結びついてあらわれてしまうのである。実際は人が殺されるということや、いやなことが起こってくるということに対して嫌悪感を抱く。それ自体は悪いことではない。しかし、価値観はそのような中でも守っていかなければならないのである。そして、そのなかにきちんと信仰の実践が示されていかなければならないのだ。
マナセの記事は短くまとめてあり、その中に彼の悪辣さが記されている。悪辣という意味はそれぞれのイメージがあるだろうが、この場で示したいのは「真の神を受け入れないという人の根本にある罪の問題に対して神が大いなる憐れみをもって回復を図ろうとされているにもかかわらず、また、多くの御業がなされているにもかかわらず、それを受け入れないという大いなる罪」なのである。今日の21章の中には罪のないものの血を流したという一文に飛びついてしまいやすい。「きっとなにか悪いことをしたんだ」と思いやすい。しかし、この一文は単なる結果として、このようなことがあったのだということのみを表している。最も大切なことは本来、真の神、主が臨在された神殿にマナセという王は異邦の神、アシュラ像を置いたという事実である。これが根本的な人間の罪の問題であり、神を無視し、捨てるという罪の悪しき所から救われて解放されなければならないのにもかかわらず、どんどんと滅びに向かう人間の恐ろしさがあらわされている。彼らはこれらを恐れず、自分から悪しきに向かう。マナセはこのような悪を行った。また、イスラエルの民も罪へと染まっていく。
厳しいようだが、ひとたび主に従わないということを選んでしまうと、そこから、主の恩寵、回復が切り離されてしまうということを私たちは畏れなければならない。私たちは彼らの姿からこれらのことを見続けていかなければならない。主は繰り返しそのような罪深いものであるにもかかわらず、ダビデのゆえにまた預言者を通してご自身の憐れみ、ご愛として、表し続けておられる。しかし、いよいよこのところでエルサレムはその罪のゆえにひっくり返され、悪いものがすべて捨てられるような光景が浮かぶように語られている。こうして、最初に語ったように彼らは神殿があるから、真の神がおられるからと頼りにしていたが結果として、バビロンに滅ぼされるということになる。神はそのような現実のエルサレムの姿を見て、ここですべての悪しきを裁かれることを行ったのだ。実に55年という長い治世があるが、世について、世の価値観の中で行われる日々、それを喜び受ける民の姿、結局は安定した日々があればそれでよいという極めて安易で曖昧で、神の恩寵に目が向けられていない民の姿がそこにある。結局その安定の背後におられる神の有無は関係ないという身勝手なものでしかなかったのだ。マナセの治世がそのような形で推し進められていった。あたかも神が放置しておられたかのようにうつるが、実際は神を求める者たちがわずかであったことが象徴されている。
罪に対する恐れが私たちにはある。そして、奇跡的な形で行われた恩寵こそが救いなのだ。だからこそ、それを感謝して生き続けることが求められている。だからこそ、恐れが欠落し、罪という問題、聖霊の働きへの関心を無くしていくならば、人の中にある悪しきはどんどんと私たちの心を蝕み犯していってしまうのである。それが人の世であることを認識して、恐れていくことこそ大切なのである。
旧約の選びの民と呼ばれるイスラエル人たちは本来神からの召しとして人々に対して神の恩寵と救いを表さなければならなかった。しかし、彼らはそれをしなかった。そればかりか、そこに価値を見失い、神を否むということにまで発展したのだ。新約の時代において私たちもまた福音に携わり、仕え、神の召しに生きるということが求められている。しかし、いつの間にか「なぜそれは私がしなければならないことなのでしょうか」と言いながら、与えられている召しを忘れてしまい、見失ってしまったときに、このイスラエルのように悪しきが私たちの中に入り込んでくるのだ。だからこそ、私たちに主が憐れみを通して召しを与え、その中で積極的に生きることを求められておられる。主はイスラエルの姿をそのようにして記しながら、私たちに警鐘を鳴らしておられる。この神の福音と召しの中に生き続けること、そしてそれを自分で実行して終わるということにとどまるのではなく、愛する者に対して、主の手の中で生きることに対する喜びを伝えていくこともまた重要である。しかし、生きることに困難を覚えていくと、この世と調子を合わせてしまう。結局は目先の幸福を求め、本来大切なものを見失ってしまうのだ。21章のマナセの記事は私たちによき学びを与える反面教師として語られていることを覚えながら、良く学び、神の恵みの中を歩ませていただきたく願う。
Q:マナセが12歳で王となったとかいてありますが、悪いながら長い間その治世を治めていました。またその後8歳で王になったヨシヤは神の前に正しく行いました。その差は何処にあるのでしょうか。
A:既に当時のエルサレムは政治体制が二大勢力のようになっていると考えられる。政治的な流れと、この当時の世界情勢を含め、愛する者たちの生活の安定をどのように行っていくのかということへの試みとして治められている。ヒゼキヤの時も語ったが「このような時になぜ主の神殿を修復したのか。むしろ軍を強化すべきだ」などと語った者も少なくなかっただろう。しかし、同時にヒゼキヤ側に立って従ったものもいる。王側にはイザヤをはじめとした預言者や祭司などを含めた者たちが立っただろう。それぞれにそこに意図があり、それぞれの動機で動いているため、王側と反対勢力で分散しているのだ。どちらの勢力も自分たちが正しいとして動いている。エホバを信じていくのだという方向や偶像を置いても良しとする方向、それではいけないとする方向。実際はそのようにして様々な考え方が乱立していた。今日の話としても、キリスト者と言われる人々がどれほど整えられた中で生きているかということにも言及できる。それは別に裁くという意味ではなく、ただしい形で信じ、信仰者としての歩みが貫かれ生きられているかというと疑問を持たずにはいられない部分も多い。というのは口で説明することは可能だが、そのように生きているかはわからない。その時々の体制に動かされている可能性も少なくないのだ。本質的にはヒューマニズムを含めた人間性の良さを信じているという部分もある。信じるとは多様性を含んでいる。しかし、その中でも真理は一つであるということに生きているのだ。今、私たちは教会を正しく歩ませ、集いが守られていくことを求めているのである。言われた通り55年続いていることから、マナセが行った宗教的な改革はこの地に変革を起こしたと考える人も多かった。しかし実際は、いかにも問題が起こってきて、神をないがしろにする方向へと走っていってしまった。彼らがそのようなことを思って生きた途端、その次の代はそのような考え方が蔓延するようになるのだ。いま語った内容は新約の時代も旧約の時代も併せて考えているが、本当の意味で神の恩寵の中で生きているということを信じて、自らを向かわせていかなければならないのである。信仰の継承がままならない現代の日本のクリスチャンの実態はそこにある。結局は頭で理解するだけの信仰で、形式的なものになり、いざとなると子どもの信仰は子ども自身のものであり、こどもの人生だから自分で選ぶものであると正論を示す。しかし、実際は極めて中途半端な信仰の実践しか示せないことによる帰結としての現状を正当化するしか術を持たない。結果、それを選ぶこと以外にも救いはあるかもしれないなどというものの言い方を結局はしてしまう。というのはそのようなところを強調しすぎると原理主義のようにとらえられてしまうからである。だからこそ、スマートにおかしくならない範囲で考えを押しとどめて終わらせてしまうことが日本のクリスチャンには多いのであると考える。その故に、それぞれがそれぞれの価値観で物事を進め、この程度でいいのではないかと妥協し、故にそのレベルだったら別に信じていても信じていなくても変わらないと次の代は言ってしまう。それが雰囲気として私たちがこれまで歩んで来て感じている状況である。とはいえ、究極私はこの生き方を押し付けはしない。押しつけは原理主義であるからだ。しかし、一方で押し付けなければ伝わらない熱量というものが存在するのも確かである。だからこそ、その難しさは感じている。話がずれたようだが、そのような一つの動き、うねりにならず、それぞれが自由に生き、自らの生き方を正しいとしてしまうような生き方へとなるのだ。それは神は生きておられると語っていながら、神は何もしていないというような生き方に終わってしまう者へとなるのだ。私たちはその問題に常に触れ続けていく必要がある。主の恩寵を受容できるかが重要なのだ。ヒゼキヤの問題を取り上げながら、私たちは意志して生きていることを取り上げてきた。私たちが受け入れる心が整っていれば主の意思を聖霊の導きによって気づくことができる。しかし、意思していなければ、受け取ることもできず、流してしまうことや、意識せずに拒絶の体制を取ってしまうことがあることも語ってきた。だからこそ、この教会が、それぞれ意志して取り組んでいることを示しあい、選択と結果を分かちあうことを通して、そこにある感謝をもう一度見出すことができる幸いを大切にしたい。抽象的でわかりにくい部分であるからこそ、よく考えながらこれからも取り組んでいく必要性を感じる。
Q:マナセの後にアモンが出た際に、アモンを家来が殺して、民衆が家来を殺したということが記されています。民衆自体はアモン王の方がよかったと思っていたと捉えてよろしいでしょうか。
A:ここにいかに人間の考えと言うものがまとまらないものであるかが示されている。良いことにも悪いことにもそれらが出ているのだ。文章自体が簡潔な内容でまとめられているため、それ以上考えていくことは困難に思われる。視点を変えれば、歴代誌にはマナセですら悔い改めたことが記されている。しかし、実際のところは、民は何も変わらない。神の裁きはマナセが王としてなした悪しき事実とそれを受容して同調した民へのものと記されている。実際のところで言えば12歳から始まっているマナセの王政を考えれば、民衆の中心と呼ばれる人々が彼をそのような中で導いていると考えられる。とはいえ、マナセがただの象徴で、何も彼自身がしていないかというと勿論そうでなない。しかし、マナセ以外の原因でこのことがなったのかと言われてみるとそうとも言えない。私たちが誰かにその原因があるとして責任逃れをしたとしても行った悪しきが形となることは確かである。マナセはその中で最終的に神の恩寵に出会うことができた。しかし、それは神の一方的な選びであり、そこに、神以外の何者の意図も含まれてはいない。だからこそ、「マナセに対する恩寵があって、ほかにはないというのはおかしいのでは」などと語る事もあってはならない。神の恩寵を受け入れるか、救い主を信じ受け入れるかが重要なのだ。誰かを罪に定めようが、救われようが、それは私たちに直接的に関係しない。その救いはその人のものであり、恩寵もまた同じである。それを裁くことは無意味である。それは信仰生活を送る中で明らかにされている。他の人が「なぜあの人が救われるのですか」というのもおかしいし、「なぜこの人を救ってくれないのですか」というのも同じである。すべてに神の導きと憐れみが存在し、そこにこそ恩寵が働かれる。その導かれ方は異なり、あの人のような導かれ方が良いというものでもない。それぞれに必要な形で導かれていることを心に留め、ただそのことに感謝をすべきである。そしてそのようなことを愛する者たちに示していくなかで、様々な形で働かれる神の恩寵に目を向けることができるように、教えていくこと、また、すべてのことに神のご意志があり、それは人の勝手な価値観の中で図ってよいものではないことを示し続けていく必要があるのだ。
Q:サムエルⅡ9章全体を読みますと、ヨナタンのゆえにメフィボシェテに恵みをもたらそうとしたことが記されています。愛するヨナタンのためとは言え、彼はダビデのことを殺そうとしたサウルの息子でした。それでもダビデはメフィボシェテに恵みをもたらしました。その信仰のブレの無さに、自分もそのような信仰者になりたいとおもわせられています。その価値観をどのように持ったらよいでしょうか。
A:そのような考えを持っていくことが重要である。まずはそのような価値観を持ちたいと意識していることによって、周りに起こってくる出来事をそのような視点で捉えていくことが導かれる。また、私たちの人生には本来しなければならないことを放置したゆえに過ちが起こってくる時があり、そこにメスが入れられ、恩寵によって救いを得る。時にまた繰り返しそうになるが、それは人としての弱さであることを認識しつつ、畏れかしこんで取り組みを行っていくのだ。その中でチャレンジしていく心の強さを抱くことが大切なのである。神を信じていると言いながら、身の回りの人からの攻撃を恐れ、逃してしまったということも現実にはある。しかし、こうなりたいという価値観を持っているとそのような場面で自分の身の振り方をもう一度客観的に見つめなおすことができる。それが基準となり、自らの行動の方向性が決められるのだ。そのようにして、私たちは信仰を全うしていく。その最も良き例として罪人のために生きたイエス・キリストの姿を覚え、また、そこにつながりを見出すのである。私たちは平穏を求めるのではなく、困難と対峙しながら生きた交わりを成していく必要がある。それは私たちの生きた霊的な感覚を研ぎ澄ましながら、自分の行動や周りの行動、様子に聖霊の細き御声として反応していくことができるのである。違和感として価値観の相違を覚えるのだ。しかし、平穏の中にどっぷりとつかってしまうと感覚が鈍るだけでなく私たちはそのような違和感を覚えても、問題をさけて衝突が起こることを恐れてしまう。だからこそ、そうならないように意識して、克服したいと願い戦う必要があるのだ。それによって私たちは霊感を育むことができる。そして豊かに神のお扱い、恵みの中を生きることができる様になるのである。私たちが十分に生き行動していないと、何かを始動しようとした時にそれが思い付きで終わってしまったり、正しい行いにならず突発的なものになったりして終わってしまう。しかし日々の中で考え、選択し、祈り待ち望んでそのことを行うならば、それは信仰を増すものとなる。その結果は大切なものを守ることができるようになったり、教えたり、表したり、ひいては継承できるようになる。そして、周りの人たちに主の栄光を表すものとなり、その変革が示されるようになるのだ。ダビデ自身は心が広いという人間的なものだけでなく、ヨナタンとの友情、彼がそのために行ったことへのダビデの約束として彼の息子に恵みをもたらした。それは最終的にベニヤミン族がユダ族と併合していく大切なものとなったのだ。パウロは自らをベニヤミン族と語っている。ほかの部族は王国分裂後イスラエルとなったが、ベニヤミンはユダと結びつき、そこでユダ王国として残ったのだ。
いま野球界を大きく騒がせている大谷の話を取り上げよう。とはいえ、彼の話をすると野球界のトップの話になってしまうため自分のこととは次元が違うと切り離さないで聴いていただきたい。先日のプレーオフのフィリーズとの試合の中で彼が投げて、最終的に佐々木朗希選手がしめて勝った。その時、多分大谷は6回まで投げたが打席は四三振だった。最後の9回表に大谷の打席が回ってきた。彼は初球でセーフティーバントの構えを取った。場面自体を見れば、バントの構えを取る所では勿論ない。そんな時に2球目もボールだった。そこで彼はなぜかボックスを離れ、間を取った。本来ならばその必要もない。なぜならボールが2球続いているということは相手ピッチャーにとって落ち着かない状況だ。ここで間を取るということは、相手に一呼吸落ち着く間を与えることになる。しかし、彼はそのような行動をとった。そのまま投げさせれば、もしかしたらポーンと打ててこれまでの四三振を払拭できていたかもしれないにも関わらず、彼はなぜそのような行動をとったのだろうか。それは佐々木が投げるために十分に準備の時間を取れるようにと間を取ったのだ。結局大谷はフォアボールを選んだ。ここまでの話は解説者が語っていたことだが、そこに私は彼がどれだけ優勝を狙っているのかという姿を見た。
佐々木朗希選手は23歳でまだまだ若い。大谷を慕って大リーグ入りしたが怪我でやっとこれから出ることができるようになったのだ。大谷のマインドにはこの試合で勝利するためにどうすればよいかということがまず働いた。だからこそ、彼は四三振の後、9回本来ならば打ちたい状況であるにもかかわらず、フォアボールを選んだ。それによってチームの勝利につながったのだ。
私たちはそのようなマインドを持っていく必要がある。それは意識して次に自分はどのようにすればよいのかという心を持ち、その心は自分の利益ではなく、主の御心を求めるものであるべきだ。それこそが主の栄光を表すことになる。その様な信仰の姿勢を持ち続けていくことを忘れてはならないのである。
Q:一か月病院に入院している中、リモートで礼拝には出ていましたが、この期間も守られたことを感謝いたしました。また先日父の証を聞き、二つ勘違いを見つけました。父が救われる前に剣道部の主将として世の中での地位を獲得していた時、「信仰の必要性を感じない。信仰が無くても何とかなりますよね」なんて普通の牧師先生だったら正論を応えて終わってしまったと思います。しかし、光明牧師は本当の悩みを捉えていて、そんな父に対し当時の思いを聞かれた際には「社長の御曹司だよ。何としても継承してもらわないといけないという重荷を背負うというところで救いがもたらされるようにと慎重に接していた」と語られました。私も若いころ忍耐していただきました。そのことをもう一度振り返り、心から感謝をいたしました。
A:それこそ生きた証であると感じる。事実以上の証はない。あなたの父親は恩寵の中を生きてきたのだ。粛々とその御手のなかを歩んできたのだ。聞きにくいかもしれないが、本質を見ようとすれば、悪いところ、いやなところはある。しかし、それを見たところでどうにもならない。そこに意味はない。恩寵こそ意味があるのだ。恥部を探そうとしてはいけない。人間の罪の実態はそのような中にある。だからこそ豊かな恩寵が必要であり、それによって生きているのだ。それが事実であり、重要な部分である。兄弟がその恩寵のゆえに生きて信仰を繋げることができたということに感謝をする。
私は丁寧にものを進めることの大切さを光明牧師から学んだ。直接聞いたわけではない。ただ、牧者の務めとして一緒に戦う覚悟をして通っていた。私たちは、例えばその人とともに警察に行かなければならない、教会から総バッシングを受けなければならないとしても、その救いを求めに行かなければならないのだ。それこそ、牧会者の重要な役割なのである。正論は簡単に言える。しかし、まずその正論に相手が打ちひしがれていてはどうにもならない。まず、受け入れ、寄り添った先で、少しずつことを進めていくことが求められているのだ。
先日家庭集会の中で「私は絶対に揺らがないという姿を見せるようにした」ということを語った。それは多くの人が私を頼ってくる時に私が信頼を導けないということが無いためである。同じように親たちは自らの子供達と一緒にその所で戦うことを覚悟しているかが重要なのである。現在様々な伝道の企画がなされているが、その中で子どもたちが友達を誘うということが示されている。では親の世代にとってはどうだろうか。親も友人を誘うということが求められているのだろうか。それもあるが、本当に求められているのは親が一緒に子どもの友人のために重荷を担うということである。直接的にアプローチするのではなくても、周りの者たちが関わっていくなかでその人格に働きかけているのである。そしてともに悪戦苦闘しながら取り組み続けていくのである。心地良さや達成感を求めてやるのではない。この人にもキリストの憐れみが導かれることを信じ続けることによって恵みは成立していくのだ。
信仰の継承と教会建設、福音宣教は実は一つのものであることが分かる。信仰の継承はただ自分の子どもが教会に来ればよいということではなく、そのクリスチャン家庭の問題課題を是正し、世代を重ねる中でキリストの贖罪と共に多くの不備や悪しきを克服していくことが求められているのだ。それによって次の世代は同じ問題に逢着して苦戦するのではなく、また違う課題に取り組んでいくことができる状況を作り出していくのである。勿論、それもまた恩寵である。その中で与えられる導きに感謝し真実に歩んでいくことが求められているのだ。
Q:伝道者の書9章11節「競争は足の速い人の者ではなく・・・」これはどういう意味なのかチェーン式バイブルにも書いておらず、何が語られているのでしょうか。本来、そのことに対して当たり前ではないということを記そうとしているのでしょうか。
A:神の恩寵について語られている。その時にその場にいるということの重要性がここにはあるのだ。私たちに自由意志はあるが、時にすべてのことを神が一切関係なく推し進められているのかと思ってしまう。しかし、それでは最後に銘々が審判を受けるというのはおかしい。確かにものごと全ては神が行われる。そのことを私たちは事実として理解することはできる。ただそれを語っても受け取り方は信仰の深さによって変わってくる。信仰の度合いなどによってとらえ方が変化するというのである。人からの受け売りでもよいが、ただそれで終わることなく、少しずつ自分のものにしていくことが求められるだろう。それによって自分の得る部分がありそれが信仰の賜物である。神が全てなしているという事実を理解して物事を見ていくとある形が見えてくる。ただそれは年齢によっても当然、見える世界が変わる。だからこそ、もう少し生きたいと私自身は思う。その年を重ねることで考えが変わることもあるからだ。もうしばらくすると受け取り方も変わってくる。くどいようだが、だからこそ神の行なわれた御業の事実を列挙し、それを吟味していくことが良い。正面から、周りから、遠くからと眺め方が変われば、見えてくるものも変わる。そのように様々なことを見ていくことが重要である。否定形の文章ではその人のものではないから、「努力することは無駄か」ということを語っているのではないだろう。事実は実績の話である。歩んできた道を見定めるからこそ、これから歩む未来に希望をもって進むことができる。書かれた通り、競争は足が速いものが勝利するわけではない。そのようなことが切々と書かれているということは、実際そう信じるべきことである。解答らしい解答になっていないが、歳を重ねるうちに私達の考えに深みが増していく。最終的には神のなされたことに「御意」と言える信仰を持てるかどうかである。先日家内が怪我をした際にあなたが取り次いでくれたが私は一番に「生きてるのか」と聞いた。それはもし何かがあるならば「御意」と言わなければないからである。それほどの覚悟を私はもっていなければならないと思っている。
私は事実の積み重ねに勝るものはないと思う。そしてそれは一番近いものに豊かに伝えられる。それによって信仰とは何かが伝わり、その先で聞いたものは自分に与えられた神の御業を見るのである。
Q:役職というものが仕事の中であり、上司である課長と次長の動きがかみ合っていないと感じていて、そののち「期待してるよ主任」と声を掛けられたのですが、その前に上でちゃんとしてほしいと思いました。役職を担うものが必要な事実はわかりますが、噛み合っていない姿を見ると、どうにも複雑な思いがします。
教会の中では様々なところを担っている方々がいます。牧師、伝道師、役員などと役職があり、その役職にふさわしく生きていると思います。ただ、世の中の仕事の姿を見ると役職にふさわしく生きるとはどういうことなのかと思います。そして噛み合ってない姿に対し、私はどのような姿勢であるべきなのかと思うのです。同時に、教会の中でもそのような視点で見ていく必要はないのですが、考えてしまうこともあり悩みます。
A:質問の一番の中心は「色々なことが見える中でどうしたらよいのかと悩む」ということだと感じる。目が開かれ、見えているがどのように対応していくべきかを悩んでいるのだろう。その中には見たいものだけではない見たくないものも見えてくる。だからこそどうその事柄を処理していかなければならないかということに悩むのだ。あなたが見たくないからと目をつぶれば、それはゴミとして残る。そうすると、周りの人がそのゴミを処理しなければならなくなる。あなたがどのように処理するのかが重要になる。いやな仕事を譲らないということがあなた自身でゴミを処理するということなのだ。ゴミは必ずでる。そして多くの人がそのゴミに悩んでいる。抽象的な話になるが、そのゴミを受け取ってもらえたならどれほど嬉しいか。それを繰り返せば、時に相手が「わたしがそのゴミ捨てますよ」と担ってくれたりもする。
ゴミをため込めば、あなた自身が臭い中で過ごさなければならなくなるし、誰かに渡せば、相手を困らせる。だからこそあなた自身がため込まず、処理する手段を得る必要がある。あなたの人生はこれからよりそのようなものが増えていくし、今でさえ、その処理に悪戦苦闘している。しかし、それから逃げずに取り組んでいかなければならない。それでも、あなたがその悩みの先で、ただしい形で処理することができるようになったら、またさらに効率を上げて処理量が多くなったなら、それは大きな幸いである。悩みは尽きないだろう。しかし、それを悩みとして持てることこそ、主が与えてくださった幸いなのだ。その故にあなたはその処理方法を探すことができる。誰かのごみを受け入れようと考えることができる。自分のごみを無責任に無知のゆえに放置したり、誰かに放り投げてしまうこともなくなる。それこそが、主のもたらす恩寵であり、豊かな福音である。なお取り組み続けていただきたい。
主はなお私たちに知恵を与え、成長を促し、歩みを止めることなく進めるように計らってくださる。その恵みを握りしめながら、感謝とともにこの月も歩ませていただきたく願う。
今月もよい時が持てたと感じる。日々の中で自らが信仰者であるということを外すのではなく、世の中にあってこそ信仰者として光と香りを放つものであっていきたく願う。