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― Q&Aルーム ―

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-171 —
   -- 2025年8月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅱ 19章

  前回取り上げた18章から続いて、この時アッシリヤがユダを取り囲もうとしていた。ただ、そこにはアッシリヤを攻め取ろうとするエジプトの姿があった。アッシリヤは多方面に戦いを進めなければならなかった。そのような状況の中、城壁の町エルサレムを攻めるということは本来ならば困難だった。だからこそ、エルサレムの住民を言葉でもって、揺さぶろうとしていたのだ。ヒゼキヤはそのような中、ことがどのように動くかわからなかった。厳しい状況の中でどのようにことを推し進めていくべきか悩みの中にあったのだ。そのような中で彼らの心を支えたのは、真の神、主を信じる信仰だった。彼らはそれを選択することができた。アッシリヤの甘言に惑わされ人に頼るのではなく、真の神を選び取り、神の導きやご計画がなされることを願ったのだ。この19章の最後には預言が語られている。そして、そこにはアッシリヤがイスラエルを攻め取れないということが宣言された。はじめに語った通りアッシリヤにはユダを攻め取るだけの力が実際にはなかったのだ。それは彼らが言葉で脅したことからもよくわかる。今日のところにはヒゼキヤに対する直接的な手紙が送られてきたことが述べられている。その背後には力だけで彼らを落とすことができないという事実が隠されているのである。アッシリヤはそれまで力ですべてを征服してきた。にもかかわらず、ここで言葉を用いた姿から困難を抱えていたことが示されているのだ。とはいえ、それは私たちが今、冷静な中で状況を見るからだ。当時の苦難に直面した彼らにはそのように戦況を見極めることは難しかっただろう。そのような中ヒゼキヤは神の前にその手紙をもっていき、神の力を待ち望んだ。そして主はその声をきかれ、彼らのために御力をあらわされた。しかし、ヒゼキヤはただこの国が滅ぼされることからの助けを願ったのではなかった。彼は主の栄光があらわされることを祈ったのである。主の御手でことがおこなわれるならばすべて受け入れるという信仰が彼にはあった。だからこそ、彼らの行いに対する報いとして滅びがあるならばそれすらも受け入れようとした。ただ、その一方で、ユダが滅びたことによって主がさげすまれることを良しとしなかったのだ。結果として、アッシリヤを主が滅ぼしたゆえに、アッシリヤの王セナケリブは逃げ帰り、その先で死を迎えることになる。
 このまま最後まで平安で守られてということを彼らは願ったかもしれないが、そう簡単なものではない。その後彼らもまた、滅びを迎えることとなった。それは主が公平な方であり、正しく裁きを行われることの表れである。私たちはそのことも覚えて畏れていかなければならない。そしてすべて主の憐れみの故に私たちは救い出されていることを忘れてはならないのだ。主の愛を強調するばかりでは信仰とは言えない。主は正しく裁かれる方である。だからこそ、罪から離れることを選び取りながら、自らの十字架を背負い、悔い改めとともに歩んでいかなければならないのである。

Q:3節のところに「子どもが生まれようとするのに、それを生み出す力がないのです」とありますがどのような意味でしょうか。

A:この戦いの勝利ということを子どもが生まれる喜びと結び付けているのだ。「産まれるという確信はあるが、そこまでに至る力が母親にはないということ」と「戦いに勝利するという確信はあるが、そこまで至る力が自分たちにはない」と二つの状況を重ねて語っているのである。そして、だからこそ主の力が働かれる必要があると祈っているのだ。この表現自体はこの時代によくあった。ただ、これは形式的なものではなく、確かに自らの状況とよく重なるとして、彼もまた祈ったのである。

Q:礼拝でよく「主観」ということが語られていたのですが、物事を客観的に理解していくにはどのようにすればよいですか。

A:主観それ自体は重要なものである。誰かとの相性なども合わないと思うことや、その時に感じた感覚を大切にすることは悪くない。しかし、その感覚だけで生きて、神のメッセージを否定したり、神の御旨を邪魔するようなものになってしまったりすることに気を付けていかなければならないということを語っていたのである。それは神の配剤や干渉を退けてしまう可能性があるのだ。あなたの主観はそれほどずれているものではない。だからこそ、それがどのように宗教性と関わっているかを考えていく必要がある。すべてのことに主観を持たないというのではなく、あなたが関わっていくすべての人の上に神の配剤があると考えていくのだ。だからこそ、あなたは他者に主観を強要しないようにしようと努力するのではなく、主観の背景にある主の存在を見ながら、世の中と関わっていくことが重要なのである。あなた自身が相手に疲弊してしまう事実があるならば、その人から離れるという選択をするか、主からその人と対峙することを迫られているのだと信じて相手との協調を模索していくことを選択するかである。もちろんその中で自分があまりにも弱くなってしまっては意味がない。だからこそ時にはあなたと関わりたくありませんと相手に突き付けることも大切である。その中で隣人との関係を維持していくことが重要である。

Q:19章31節に「主の熱心」と書かれていますが、それは私たちが察することのできるものなのでしょうか。

A:これが主の熱心だということよりも、あなたのために主が熱を上げてくださるという事実こそが大切なのである。愛することを通して相手のために熱をあげるという表現があるが、そのような思いを神が私たちに対して持ってくださっているという意識を持つべきだと筆者は表現したかったのだと私は考える。
 クリスチャンでシンガーソングライターの岩渕まことという人がいる。彼は長女を脳腫瘍で亡くしている。8歳の時に発病し、1年2ヵ月もの闘病生活の末彼女は亡くなった。彼はその後に「父の涙」という楽曲を作り上げた。そこには自分の子どもを捧げた主の姿、その召しに自らを捧げたイエス・キリストの姿が歌われている。それは彼が娘の苦しむ姿を目の前にし、同時に我が子を亡くすという自分の苦しみをイエス・キリストと父なる神に重ね合わせたからこそ生まれたのだ。彼はその楽曲を作り上げた際に「主がどれほどの思いで私を救われたのかということをより深く思い知らされた」と語っている。子どもの尊さは自分のいのちを捧げてもよいほどであるということをあなたは知っているだろう。ならば、その独り子を捧げた主の贖いの業とはなんと尊いことだろうか。それほどまでに主は熱く私たちを思っていてくださるのである。
熱心という言葉の意味の中には熱さだけでなく、あきらめないという思いや、一途な感情、そのために手を尽くそうとされている様子が伝わってくるのを思う時に、それを傾けられている私たちはどれほどの価値を主が与えてくださっているのかと思い知る。その主の熱心になお応える私たちでありたく願う。

Q:先生が先日の礼拝でも言葉の大切さを語っていらっしゃいましたが、次男が3歳になり、祈りの中にも一日を踏まえての感情が出始めました。その一方で聞き苦しい言葉が出るようにもなりました。先日母親とのやり取りの中で次男が最後に「うるさいな!」と言っているのを聞き、その言葉の出所を探したときに自分がそれを子どもたちに対して使っていたことに気が付かされました。気を付けていかなければならないと考えさせられました。

A:うるさいという言葉自体は使わなければならない言葉である。しかし、それを使う相手や、状況、方向性を考えていく必要があるのだ。すべてのことにチェックは入れられない。しかし、吟味を重ねながら、子どもに伝えていく必要がある。その判断を私がすべてすることはできない。だからこそ、あなたの感覚が重要になる。ただ、そのように意識していくことがまず必要なのである。時には言葉を出す前に吟味をしてから、語る必要性も出てくる。勢いで語る場面もあるが、それよりも、一度勢いを治めて言葉を吟味していく必要がある。最近私は勢いで語らないようにしている。そしてその場で互いが言い合いをしているのを聞きながら、ときには「はいはいそのくらいにしておきなさい」というような役割を担っている。すると子どもたちは勢いに任せて言葉を出しているということに気づき、はっとして口をつぐむ。それによって父親の権威が維持されている。権威は威張り散らしているから培われるものではない。恐怖によるものではなく、尊敬によって培われるものである。だからこそ、ことばは選んでいかなければならない。言葉の売り買いによるやり取りではなく、自分が主体となる言葉のやり取りが重要となってくるのだ。また私たちには聖言という大切な神の言葉が身近にある。メッセージもそうである。そのような言葉を蓄えていくことによって心に言葉を豊かに持っていくのである。そうするとその心から出る言葉もまた、よきものとなるからである。
「この世と調子を合わせてはいけません」という聖言がある。この世と調子を合わせるならば私たちは疲弊していくのだ。だから時には、その相手と言葉を通して関係をつくり、それが難しく疲弊するならば、離れ、再び結び合わされるところでそれらを形成していくことが重要である。今回はうるさいという言葉の出所があなただったかもしれないが、そのような言葉と誤った使い方を子どもたちはどんどんと日常生活の中で家庭の外から輸入してくる。それをどのように水際で止めるのかが重要になってくる。「そんな言葉はうちでは使っていけません」「誰に向かって口をきいているのですか」など我が家でも昔は子どもたちが輸入してくるたびにそのように注意した。子どもたちがよく話したのは高校時代に「今から帰ります」と盡子師に電話をした際に友達から「お母さんに敬語使っているの」と驚かれたということだ。別に日ごろからすべての言葉が敬語ではないが、必要に応じて子どもたちは使い分けをきちんと行っていた。言葉はその人格の心を形成する大切な要素の一つである。荒っぽい言葉は人格を荒っぽくする。そうではなくとも、そのように思われる要素の1つには少なくともなる。なんでもよいではなく、正しい言葉を選んでいく必要がある。そのうえで使う相手との関係や状況、方向性を教えていくことが大切なのである。

Q:ピリピ2章17節「注ぎの供え物」とはどのような意味ですか。

A:注ぎの供え物とは犠牲になるということである。先ほどの神の熱心と同じであり、パウロもまた、誰かのために自らを犠牲とすることがあっても、一つのたましいの救いのためならば喜んで捧げていきましょうという信仰が現わされた言葉である。キリストは私たちを愛するゆえに自らを注ぎの供え物とされた。だからこそ、私たちも同じようになることができるならば、それが喜びである。私たちは福音に生きるときにそのことに出会うことができる。本当にイエス・キリストを思う時、自らの救いを喜び、感謝し、その愛を捧げることができるかということが重要なのだ。そして、できないから無理ですと簡単に言ってしまうことを畏れなければならない。
 聖書は「あなたはイエス・キリストと同じになることを喜べますか」と語りかけているのである。信仰者であっても苦しみは嫌だと思ってしまいやすい。だからこそ、そこからもう一歩進めるかは確かに重要なのである。  先ほど言葉の話をしたが、ことばがポンポン出る人にとっては「いう前に考える」ということは大変難しいことである。「誰かのために苦しみを受ける」ということもこれと同じである。しかしそれは自らの子どもを救いに導いていくうえで大切なのだ。それこそ十字架を背負っていくということの表れである。パウロはそれを主張し、信仰を表した。私たちもまた、それに習って十字架を背負うものとなっていきたく願う。

Q:四つの種のたとえ話で茨にさえぎられてしまう種のことが出ていますが、ヒゼキヤのところで、アッシリヤがユダの人たちを揺さぶった状況がこれに当たるのではないかと思わされました。信仰者でも周りからの影響によって成長が遮られそうになることを畏れていかなければならないことを感じました。

A:ヒゼキヤは神が哀れみ深く、どれほど不真実な自分たちを救ってくださっているかという深き愛を知ったからこそ、神に対し真実にあろうとした。その行為がアシュラ像を取り除いたことなどの宗教改革であった。その故にユダの人々は信仰を築き上げ、ついにはアッシリヤからの誘惑にも打ち勝つほどのものへと成長していった。それは全て、その先頭を切っていたヒゼキヤの真実な信仰の姿があったからである。  お父さんの信仰が家庭の信仰を作り上げる。お父さんが神の前に真実であろうとしたときに子どもたちに影響を与え、同じような心を持つようになる。これがユダの姿である。神がご計画によって敵がユダに踏み込むことができないと預言にも現されている。しかし、この言葉を信じることができず、ひとりでもその恐怖から逃げ出したとしたら、彼らの信仰は畏れに飲み込まれ、アッシリヤの手に落ちていたことだろう。しかし、彼らはアッシリヤに対する恐れに勝る主への信仰とヒゼキヤへの信頼があったのだ。この時エルサレムは篭城状態だった。アッシリヤは閉じこもるエルサレムの人々を前に、それでも水が無くなれば終わりと思っていた。しかし、エルサレムにはヒゼキヤが改革の中で整えた井戸があった。それゆえに彼らはアッシリヤの予想を超えて、疲弊せずにいられた。反対にアッシリヤは余裕のある戦い方をしていたが、実際は限界の者のポーカーフェイスであった。それでもエルサレムの人々が主を信じられなければ、つまりは信仰がなければことはならなかった。信仰によってことが起こるように神はそのことをなされた。初めから攻められることが無いというのではなく、攻められる経験をしたうえで、その恐れに打ち勝ち、主を選び取るその信仰が必要だったのである。ヒゼキヤが王になった時点で彼の信仰が成り立っていたかはわからない。貢物をしてしまったという失敗もあった。のちに彼はそれを誤りだったと思っただろうと想像できる。ヒゼキヤは信仰の確立された王だったのか、それとも、まだまだ信仰を築き上げている最中だったのか、それはそれぞれ想像してみるとよい。とはいえ、信仰が確立されるとはどのような状況だろうか。完璧で罪を絶対に犯さない人間はいない。信仰者でもそれは同じである。むしろ、その中で神の御旨を待ち望みながら、信仰によって様々なことに揺さぶられながらも手探りで選び取っていくことが大切なのではないだろうか。そして、過ちがあったならば、その罪を認め、悔い改めて、もう一度立ち上がっていくことが重要なのである。
 あたかも神の御旨はよくわからないと思い、耳障りの良いことを選び取ると誤ってしまうということをこの聖書は表している。私達も簡単に選んでしまうことの無いように注意していきたい。
 主は私たちの行いを通して、栄光を表されようとし、栄光を私に見せてくださろうとする。世に対峙しようと思うならば相手が10求めてきたら、20返すとよい。そうすると相手は喜ぶ。そして期待をする。そうするとお互いの地位は逆転する。相手にとって自分はなくてはならないものになる。だから、まず求められたならその倍を与えなさい。10することですら大変かもしれない。しかしその大変さに飲み込まれたら相手の思うつぼである。この世と調子を合わせていることになる。この世と調子を合わせてはならない。だから、20を喜んで行なうことに挑戦していってほしい。

Q:イエス・キリストが弟子たちにわざと飛躍した語り方をして、意味が分からないという場面が聖書には出てきますが、実際語っているイエス・キリストも弟子たちが理解できないことをわかりながらそのようにしている節があるように感じます。なぜこのようにされるのでしょうか。

A:確かにそのような節がある。しかし、それは彼らの心に言葉が残るためである。疑問への回答がすっきりしたものだと人は考えずに終わってしまう。福音書記者たちは皆その噛み合わなかったという事実が忘れられずに残ったからこそ記すことができている。そこがポイントである。私は忘れるような話はしなくていいと思う。子どもたちとは嚙み合わないくらいの話をする方が良い。そうすると子どもたちは考える。「お父さんは何を言っているのだろう」というほうが良い。ときにそれは突き放されたように感じる時もある。しかし、その中でどのような関係を持つのか、相手にとっての位置をどのように確立していくのかは重要なところである。

 この時も豊かに主が語ってくださったことを感謝する。なお、またひと月それぞれの営みにあって必要な知恵と備えが与えられ、この世にあって信仰者として立ち上がっていきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)