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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-180 —
   -- 2026年9月 開催 --

山本 咲


歴代誌Ⅰ 7章

 人々の名前が多く、読みにくい箇所であることは事実である。このところでは引き続き、イッサカル、ベニヤミン、ナフタリ、マナセの半部族、エフライム、アシェルの6部族の系図が書かれている。ここからゼブルンとダン部族は抜けている。それは彼らが異邦の民との交わりにより、厳しい違いがあらわれているのではないかと言われている。イザヤ書9章1節2節には「しかし、苦しみのあった所にやみがなくなる。ゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」イエス・キリストが宣教を開始したのがカペナウムであり、宣教の中心地となった。ガリラヤはエルサレムを中心としていた人々にとっては異邦の田舎の地であり、差別の対象となっていた。しかし、神はイザヤの預言の通り、彼らを完全に憐れみから外すということをされなかった。紀元前721年にアッシリヤに滅ぼされて完全に消息が失われたという事実があるにもかかわらず、なぜ彼らの系図と名前、数が残っているのだろうか。初めのところにダビデの時代のことが書かれているが、彼らを中心とした盛んな豊かな時期があった。だからこそ、彼らは一度分かれてしまった後も、もう一度北と南を一つにしようとした。しかし、それはならなかった。それほどまでに分裂は激しかったのである。人間が当面していることを越えていくために考えることの限界がそこにはあったのだ。だからこそ、神のご計画と赦しと憐れみが必要であり、それこそが最善であることを私たちは聖書の中に見続けるのである。ただ記録が残っているということはそれを覚えて大切に持ち続けている人々がいたということが背景にあるのだ。それは神がもう一度憐れんでくださり、イスラエルを回復してくださるという期待、信仰があったのだ。しかしそれには圧倒的に及ばない現実があった。そのような中でも神の御業と約束を信じる者たちは記録を残しし続けたのである。今この時代にはコピーやメモリがあるが、彼らの時代には動物の皮などが使われていたことを考えると、失われそうになると写していたと予想される。実際にヘブル語に戻っていくと誤記というものが見られることもあるという。私たちも読んでみて数字が合わないということもあると思うが、そこに携わった生身の人間がいた事実が現れているのである。実際失われないようにキープし続ける仕事、責任があったのだ。イスラエルは30歳から成人と言われるが、見習いの25歳が60歳までその記録を維持したとして、35年ほどの歴史を神の働きとして担うものがいたことを考えなければならない。私たちは信仰の継承を大切にしている。人間は生きる上で自らの人生分の時間しか関われない。それが当然である。しかし、神のご計画や憐れみ、神を畏れて生きる上で継承していくものがある。それは神からの恵みやご利益というものを目的としているのではない。天国はもちろん幸いであるが、それを目的とするのもまた誤りであると考えられる。そうでないとそのことを中心とした考え方、レベルでしか物事に取り組んでいくことができない。しかし、このイスラエルの系図をみると信仰というものを通してつながり、代々守り続けようと厳命してきた姿が見られるのだ。あなたはこれを維持していくのだと語られながら生きたのである。ある程度の生活が許されている現代とは異なる時代であり、生きるにままならない捕囚の時代も越えている。先ほど語ったようにアッシリヤに滅ぼされ、恵みが失われた時代でもあった。しかし、それでも神がイスラエルを復興してくださると信じた者たちがいたからこそ系図を残すことができ、それがエズラまで届き、集まり、記されるまでになったのだ。合わせて、失われた2部族もあったが、エゼキエル書などを読むときにはダン部族にある特別な計らいを見ることである。私たちは何者であるかということを維持するための継承、系図ではなく、神のご計画、ご命令としてイスラエルを残す働きであったのだ。それは信仰の系図であり、恵みの証明である。人は生きるときに困難に陥ると神を見失ったり、裏切ったり不遜であったりということがある。しかし、それに対して神の憐れみは尽きないという信仰を持ちながらそれを守り続けたのである。新約の時代になり、その約束の成就をイエス・キリストが救い主としてなしてくださった。そしてマタイの福音書は今が救いの時であること、天の御国がなったことを記している。では私たちの今の時代に主は何を働きとして用意しておられるのだろうか。系図を残すことを使命として与えられた時代、そして礼拝者としての時代があり、そこを超えた今、私たちには信仰を継承していくこと、福音を述べ伝えなさいと語られている。それこそが神の御旨として与えられているのだ。多くの人たちが時代を生きる上で迷走している。だからこそ、私たちにはこの日本という地にあって使命を果たさせていただきたいと願う。その救いを受けた私たちだからこそ、継承していくことを当然として歩ませていただきたい。私たちそれぞれに与えられている課題がある。それに取り組むときに目先のことにとらわれず歩むことができる。もちろん足元をおろそかにしてはならないが、同時に神が見せてくださる預言、ご計画に心をはせさせていただきながら、自らを信仰者として強め、一喜一憂することなく落ち着き安定した信仰生活を送ることができるのである。もし神が私たちに与えてくださっている使命に生きるなら、主のなさってくださった一つ一つの御業、憐れみの豊かさを自らのものとさせていただき、ひとりの人生としての短い生涯であるかもしれないが、聖言とともに、主に仕えさせていただきたく願う。日々の生活はそう簡単なものではない。しかしそれだけに終始してしまうのではなく、神の御旨に仕えさせていただくお互いでありたく願う。

Q:今日の話にも通じると思われますが、神が関わってくださっているということを結び付ける際に神と自分の境目がわからない時があります。本当に神の御旨なのか、自分がしたいだけなのかと。その境目はどこにあると思われますか。

A:私たちは両方持っていなければならない。神の憐れみという話をしているならば、神が働いてくださったことで何か起こってきたことに対して普段はそう思わないのに、思うようになったと捉え、そこに神がそのような意志を与えてくださったと認識するのである。それは究極的に言うならば、神が働いてくださらなければ何一つなすことはできないという話になる。また片方では神のご計画ではあるが先ほどの系図と同じように、私たちの側が意志して働きをはじめてそれを維持させていただくということである。勿論それを憐れみによって許されたのは神である。ただその中で、促されることや使命感を与えられたときに、豊かに守っていくことができるかということである。そのためには必要なら私たちも変わらなければならない。だからこそ、見定めるべきは、神が意志させてくださったということも大切だが、神が維持させて勤めを果たさせてくださったということである。維持していくことははるかに労力がかかる大変な務めだ。困難があろうともそれを乗り越えさせていただき、歩みが止まるときがあろうとも再び進みだしてあるところまで至ることによって勤めが全うされる。だからこそこれを覚えていくべきなのだ。私も今晩そのようなことを話させていただいたゆえに考えさせられるところであった。 メッセージの繰り返しになるが、ペテロは姑を癒してもらったり、ともに歩いていただいたりというほどのイエス・キリストと関係を作り出していた。だからこそ船を貸し、そのうえでイエス・キリストが説教をされるということも起こってきた。しかし、先日礼拝で語らせていただいたところが本当の意味でペテロがイエス・キリストを神の子であると確信した瞬間なのだ。
私たちが自分の罪を赦されるのは、イエス・キリストを信じた瞬間である。それも本当に心からの確信が重要なのだ。若いうちに救われた人は特にその年齢に応じた本当の意味での出会いというもの、確信というものが必要なのである。その時点での救いは完全なものとして与えられている。しかし、理解の不十分さというものはもちろん年齢によってあるのだ。だからこそ、イエス・キリストとの本当の出会いの瞬間を大切にするべきであり、認罪と心から罪赦されたという確信に至ることが大切なのだ。
このところではルカがペテロについて記したがこの記事以降ペテロが一切揺らがなかったかというとそうではない。彼はイエス・キリストの十字架の前で3度知らないという発言をしている。ただその後ヨハネの福音書ではイエス・キリストに呼ばれ、私を3度愛しますかというやり取りを加えながら、イエス・キリストを含めたその周りにいて実際にかかわった人々のことをのせている。話が少しそれてしまったが、誰かが私の救いを証しするのではなく、あくまで私がどのようにイエス・キリストと出会い、信じたのかというところが重要なのだ。そしてイエス・キリストが神であるということを確信する必要がある。
ただその意味で現在イエス・キリストと人格的交わりはない。しかし、直接的な交わりはなくとも、人を通した交わりがあることも私たちは覚えていく必要がある。イエス・キリストは靴屋のマルチンではないが、色々なところに現れてくださることを合わせて信じていくのだ。魚が多く取れたというあの記事はペテロの働きにかかわる大きな問題だった。だからこそ私たちの仕事ということにリンクして考えやすい。彼にとって働いた一晩中の労苦とその中に見いだされない成果ということがあった。ただその事実は彼らにとって起こりうることであったし、その中でもイエス・キリストを迎え、その話を聞いていたという事実がある。その先に本当の意味でイエス・キリストに出会い、そこから主を見出したのだ。それは本人の問題であり、その人の中で私はイエス・キリストを見たというならばそれを誰かが否定することはできない。神が語ってくださり、イエス・キリストが促してくださったのだと捉えてよい。ただ、少しすると忘れてしまうとか、あれは勘違いだったなどというようなことではいけない。それはとらえ間違いである。だからこそ思い込みが大きすぎないように静かにはじめて神の導きを見出していく必要がある。
先日のメッセージではイエス・キリストが神であるという事実をペテロが目の当たりにしたということが重要だったと語ったのだ。その瞬間は特別なものであり、簡単に起こってくるものではないのである。
実際年齢や時間の経過とともにそのような認識が変わっていく。5年経ち、10年経ちという中で神の御業や、自らの変化を理解していくようになるのだ。

Q:黙示録3章19節「わたしは愛するものを叱ったり、懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい」この聖言から私自身のことについて考えさせられました。自らの犯したことを告白し、罪の悔い改めをすることをしています。それによって喜びも感じますがときに自分の犯した罪を思い出し、いかに罪人だったかと当時のことを再度悔い改める時があります。
それでもなぜあんな罪を犯してしまったのかと後悔してしまう現状があり、自分の悲しみにとらわれてしまいそうになるのですが。

A:実際には憐れみの豊かさに着目しないと自分の悪い部分にのみ視点が行ってしまう。そうするとイエス・キリストが神であり、その十字架の血潮によって償ってくださったという喜びを忘れてしまう。イエス・キリストによって買い取られたことを忘れてはならない。ということはそれ程の値打ちを私たちに見出してくださったのだということなのだ。それによって傲慢になることは誤りである。とはいえ、いつまでも自らの価値を考えるときに、自分の理想の姿、こうありたいという期待にばかり目を向けていると価値を見出せないしそれは神の御心に沿っていることではない。
人間であることのゆえに自らの得ることのできない事実を補って余りある恵みに喜びを見出していかなければならない。そうでなければ、結局自分の成果や、結果ということの先に自らの力を見出してしまい、神から離れてしまうのだ。だからこそ、「神様わかりました。失ったものは主がお求めになったことだとします」という主のご意思に従いささげたものと考える必要があるのだ。それは、一面悲しみもあるかもしれないが、従います。私の従順を受け入れて、買い戻してくださいという信仰を持つ必要があるのだ。そのようなことは人生の中に長くなれば長くなるほど起こってくる。しかし、それでもそのことを成させていただきたい。ダビデは祈りの中で「生きている限りあなたをほめ歌い、証させていただきます。だからこそ、私を生かしてください」と語っている。そのように祈ることができるのは幸いである。
私たちは神の憐れみを乞い続けなければならない。私は信仰を継承してきたからこそ神が私の信仰を担保し、憐れみの中に生かしてくださることを信じ、そこに喜びを見出している。人生を振り返れば犯してきた罪という存在に目が向く瞬間がある。しかし、その中でも謙遜に仕える者の姿を取りながら、信仰者として生き続けていく道を歩ませていただきたい。それは厳しいかもしれないが、確かに、主の歩ませてくださる道なのである。
それは重ねて言うならば、他者に当てはめるものではない。自分自身をみつめて誰かと比べることなく、そこに神の導きと召しを見出すのである。

Q:イザヤ書49章4節「しかし、私は言った「私はむだな骨折りをして、いたずらにむなしく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、神とともにある」を取り上げ、「主が私の正しさであり、報いである。その経緯がどうであれ、そこに成果があろうがなかろうが、敗北と思い、傷つく必要はない。私たちの正しさが神とともにあるなら報いもそこにある」ということが信仰書で語られていました。私は昨年から今年の自らの歩みを振り返るときにその労苦や実績とならない事実、困難というところに共感をしました。具体的なことをいうと、現在の独立してからの働きの中でお金を借りに行った際に「これしか貸せません。経営者はどういう形であってもお金を工面するものですよ」と言われました。その後確かに言われた通りだと思い、嘉納師と話をさせていただきながら、会社を維持できずサラリーマンに戻る人生になることも、会社を続けることが許されることにもどちらにもなりうるということを考えさせていただきました。そして私だけの思いや、力だけでどうにかなるものでもないという事実を受け入れさせていただきました。あわせてコロナが収束してから事業を存続していくことが中小企業の大きさ関係なく起こってきている事実を含め、私は十分に助けられているという事実を感謝しました。今考えていることが半年前には決して考えられませんでしたが、上向きに自らの心がなってくると様々なことに目が向くようになり、より感謝の思いを抱くこと、見出せるところも出てきていると感じています。もちろん傲慢になってはいけないけれど、その幸いを十分に味わいながら、喜び、隣人となる家族への感謝とともに歩ませていただきたく願っています。

A:人それぞれの人生や生涯を神が与えてくださっている。そこに優劣はない。ただ、この聖言を見いだせるということは同じような経験をしなければ味わうことができない。繰り返すようだが、そこに良し悪しをつけるものではない。良いものであっても同じ経験をさせたくはないという思いを抱く人もいる。プロのスポーツ選手が子どもに同じ道を歩ませたいかと聞かれてあまりそうは思わないというのと同じである。どれだけ周りの目には成功に見えようとも、そこにまで至る歩みや本人の抱える思いは計り知れない。だからこそ私たちはそのようなところに生かしてくださったという神の選びを受け入れ、その歩みの中にある主との交わりや特別な計らいというものを自分のものとして大切にするべきだと考える。
預言者たちの味わった経験は確かに主の選びとともに受ける大きな責任、託宣というものがある。だからこそ、苦難も大きい。だからと言って自分とは全く違うものとして、特別視しすぎなくてもよいと思う。その人の受けた苦難というものは次の世代への助言にもなる。同じ道を歩みたいと願う人にとっては経験とそのために必要な知識、覚悟を知ることができるというのは重要である。だからこそそのような経験を越えていくということも重要なのだ。キリスト教の世界は正論ばかりになりやすい。しかし、それでは現実問題に対峙していくことには使えない。知識は確かに重要であり、それによって語れることはある。しかし、そればかりでは実践が伴わず、苦労もない状況でしか聞き入れられない。対峙していく現実ははるかに困難であることを忘れてはならないのだ。だからこそ、本当の意味で死に物狂いになりながらも聖言を携え、現実を生きた人々の経験は重要であり、その人の言葉にこそ意味も見出せる。そしてそこから得られる助言は貴重だ。またそのような人は同じ道を歩む者の理解者ともなれる。それは口先だけのものではない。ただの知識ではない行いの伴う信仰が生きているのである。
その一方で正しい行いが促されているにもかかわらず、調子が悪いとすぐそのお鉢を違う人に回してしまうということに注意していかなければならない。正論を語るだけ語ってそれを裏打ちするような働きを導かれると引いてしまうのは結局その人の信仰の実践がなされず口だけのものになってしまう。だからこそそのようなことが群れの中で行われないように注意が必要なのだ。私は聖言を語るものとして語るところと、それに沿って生きるところを大切にしている。独立ということも最終的にあなたが決意して始めたことだが、その道の中には私がそのような働きにつく方が与えられるようにという願いの中でいたことにあなたが応えてくれた事実もある。だから私もともに祈った。そして仕事をたたまなければならないかもしれないとともに悩んだ。ただそのようなことを続けながら、あなたと歩んできた。それは私にとって幸いであり、その恵みをともに喜べたことも感謝であった。なおこの先教会がそのように実践の伴う信仰の道を歩み、生き続けることを願っている。

Q:先月は私たちの家族の中で体調不良が多くありました。ただそれぞれ具合が悪くなった時に私が対応できたというところに感謝を見出しました。一番下の子の時は平日でしたが、長男の学校行事で休みを取っていたということがあり、病院の予約が学校行事終わりの時間に取れて病院に連れていくことができました。また出張の予定が入っていましたが、今回はいかなくても大丈夫だろうという話になり、予定が変わった時期に長男の具合が悪くなるということもありましたが対応できました。もちろん妻の方が子どもたちの体調不良で仕事を休むという機会もあるのですが、私の仕事における重要な出来事の機会には守りがあったという事実を実感させられました。

A:私たちは何処に軸足を置いているかということが重要である。体勢が崩れた時軸足が守られていれば、よろけても大けがにはならない。しかし、軸足が崩れれば、大きく崩れてしまうのだ。軸足とは価値観である。あなたの話の中で私が感じたのは、休みということを休みとして使えなかったとしてもあなたにとっては感謝になるということである。それはあなたの中で自分の休みの日だろうが、身体や精神的に休めることよりも、家族のために生きるほうが重要であり、それが当たり前になっていることである。出張で北海道に行けば、子どもからも離れ、自由に自分の時間に使えると思えば時々は入れたいと思ってしまう人もいるだろう。しかし、そのような心があると自然とこころもちがそちらにかたむいていってしまう。その先には「なんで私の休みの時に子どもの具合を悪くするんだ。私は仕事、お前が家を守るんだろう」と相手を攻めるようになってしまうこともある。軸足は神の方にあり、神が与えられる正しさと報いが重要なのだ。
あなたの家は3番目に女の子が与えられることを願い、年齢のこともあるため、年子でもと祈り続けた。結果としてあなたの家庭に女の子が与えられた。ただ、年子であるゆえに注意して育てていくことを私たちは語り続けた。それは下の子ではなく、上の子が十分に愛される前に下の子の誕生で豊に愛されるという時間がとられてしまうということが起こってしまうからである。しかしその部分もだからこそ、代わりにそのことを意識して、上の子を愛そうという人が現れている。彼はその人にとって一等お気に入りになっている。もちろん家庭内でもそのことを意識しているだろう。ただ、その故に彼は愛されていることを自覚し十分にその中に憩っているように思う。それほどまでに私たちは覚悟を持って出来事を進めた。それゆえにことがなるということもあるのだ。私たちの教会は子どもたちが多く与えられている。その中で、家庭が守られていること、多くの家庭が神に軸足を置き、その故に家庭の信仰を守り続けていること、そのなかで子どもたちが豊かに愛されて育っていることを心から感謝する。なおこの子どもたちが主の愛の中に生き続けることを願う。そのためにも私たちは真実な姿の信仰告白と歩みを携え、彼らの先に足跡を残しつつ歩み続けていきたく願う。

Q:以前教会学校の男の子について質問したことがありましたが、感謝のことがあったのでお話させていただきたいです。教会学校でその子に以前おやつのお祈りをしてみないかと促したときに本当に嫌そうにしていたので、それ以来勧めずにいました。しかし先日普段積極的にお祈りをする子がお休みをして、再度その子にお祈りをしてみないかとうながしました。そうしたところ彼はするというので後に続いてと促し一緒にお祈りをしました。しかし、その半分以上の言葉が彼の口から自然に出てきていました。私は涙が出るほどに感動いたしました。そういう意味では週に一回だけ来ている求道者の家庭の子どもですが彼の内で意識が少しずつ変えられ、積極的な姿を見せられていることに感謝を覚えました。教会学校の教師として彼と歩めることを心から嬉しく思わせていただきました。

A:付け加えることはない。そのとおりである。本当に私たちはそのようなことを通して神の豊かな導きや哀れみを見出すことである。時にはそのような小さな人格に強いるのか、強制するのかと言われてしまうこともある。クリスチャンの中でもそれはある。それはそれぞれのやり方である。私たちは私たちのやり方、彼らは彼らのやり方でいいと思う。私たちはだからこそ、それを続ける中で「神様これでいいですよね」と問い合わせた中でこのような答えが来るときもある。もちろんそれですべて良しということではない。考えなさいと導かれる時や、そのままでは続けられないと示される時もある。そのたびに主に歩みを確認しながら、示される道を信じて豊かに歩み続けたく願う。そして、その日々の中で見せてくださる主の御業を私たちは喜び、感謝とともになお力強く歩ませていただきたい。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)