ショートコラムねだ
— 聖化と神の愛 —
「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(マタイ 5:46-48)
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ 10:37-38)
「「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ 22:37-40)
「イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。・・「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ 10:30-37)
冒頭のみことばにイエスが「完全でありなさい。」と言われています。これは「今」であって「死んでから」ではありません。そして、「完全」は「聖化」そのものですから、それが「愛」・・・「神の愛」・・・と結びついていることが示されています。
第二のみことば「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」を読んで、自分もそうしよう、それによってイエスへの愛を示そうと思うことでしょう。しかし、大事な点に気づいていない方もおられるかも知れません。「自分の十字架」というのは、自分の責任によらない、つまり隣人が故意に危害を加えたり、損害を与えたり、時には過失、あるいは善意によって行ったことなどによって、嫌なこと、望まないことが身に降りかかってきたことを言うのであって、自分の責任であるできごとは十字架ではありません。たいてい「身から出た錆」とけなされるできごとです。時には自然ななりゆきで判断ミスと言えないこともあります。しかし、自分が決めて進んだことです。他人から損害を受けると赦せなくなるでしょう。それでは十字架を負ったことになりません。
第三のみことばは、「神を愛し、自分自身のように隣人を愛しなさい」という戒めに絡んで、「自分の隣人とは誰の事か」と言った若い役人にイエスが応えられた事例の話です。
これを読んで自分も神を愛そうと思うでしょう。そうは思っても私たちの神への愛は、「身に欠陥のある犠牲」のようでしょう。
後半の「隣人を自分自身のように愛しなさい」とのことばには面と向かっていかないで、反対側を通っていった、祭司、レビ人になってそのみことばの前を通り過ぎるでしょう。こういうことを書くと、「書いているあなたはそれができるのですか」と反撃がきます。その反撃によってこれらのみことばに向かわないのではやはり反対側を通っていった祭司、レビ人になります。書いているひとができようができまいが、このみことばに向かわなければならないのです。
何度も同じ事を書いていますが、「愛はなんと素晴らしいものでしょう」と思っただけで、自分がその愛を持っていると錯覚します。それで神は、強盗にあった隣人にであう経験をさせなさいます。そのとき自分に本当に愛があるかないかを試されます。
神の愛はどこからくるのでしょうか。
救われていない世の人に神の愛はありません。
神の愛は、救われて罪を赦され新生のいのちに与って与えられます。新生のいのちは、神、教会、聖書への愛と信仰を与えてくれます。それによって兄弟を愛すにひとになれます。
なぜ聖化が必要かといいますと、救われても「古い人(古い自我、罪の根、原罪)」がこころのうちに生きていて、神のみこころに全く従う事できないことがおきてくること、富と思う世のものがあってそれだけは捨てることができないことなどがあってその素晴らしい新生のいのちの働きを阻害するからです。ほかのことはクリヤしますが、自分の固執する特定のことが関係してくると、そこを見ないふりをして通り過ぎる祭司レビ人になります。
神が試されるそのときこそ信仰の一大事、クリヤしなければならないのです。