同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 聖書…私にとっての神の憐れみ —

山田 大

「私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。」(詩篇119:111)

 今年66歳になりました。年齢についての考えは人それぞれでしょうが、私は人生の中での自分の働き、役割といったものを広げていくというよりは、徐々に整理していく段階にあるように思います。教会の中に於いても、自分の果たして来た役割を段々と後進の方々に譲って行くための取り組みを求められる時期になって来ているように思います。

 私たちの教会では毎年5月の連休の時期に「教会セミナー」という行事を行い、いくつかのグループに分かれて様々なテーマで学びの時を持っていますが、私は昨年から3年間の予定で「役員育成クラス」というグループで、次代の役員を担う方々のための講師を仰せつかっています。
 また、私たちの教会では聖書研究会の講師を信徒が担当していますが、こちらもこれからの講師を育成するために、2年ほど前から月に1度私が講師となって若い数名の兄姉たちと共に聖書の勉強会を行っています。
 その他にもかつては行っていた教会内の役割を終えさせていただいたものがいくつかあり、気がつくと、最後に聖書の学びに関するものだけが残されているように思われます。一本杉でも礼拝時には「バイブルクラス」と銘打って聖書の学びを中心とした集会を持たせていただいております。
 聖書というものは私の人生の中で絶えず私のそば近くにあり、本当に大きくまた様々な姿を現す存在です。

 若い頃はなかなか聖書というものがとっつきにくく、聖書日課ひとつ取ってみても日々重く感じることが多かったのですが、いつの頃かその全体像を何となくつかみかけているような感覚があり、そうなると今度は細部に目が行き始め、読むごとにそれぞれの部分が自分の心の中で輝いて見えるようになってきました。
 例えばヨブ記は同じことの繰り返しのように感じて退屈な印象を持っていましたが、その全体の流れがわかって来ると、読む度に、ヨブが自らの潔白を主張する態度から神の前にもう一度悔い改めるところに至る過程に感動を覚え、全てを支配しておられる主権者であられる神への畏れと厳かな思いを新たにさせられるようになりました。
 またエレミヤや哀歌、エゼキエルのあたりでは、全体として神のイスラエルをはじめとする人類に対しての怒りと裁きに身の竦む思いで毎年その時期を読んでいましたが、段々とその中に神の愛と憐れみ、私たち人類に確かに救いをお与えになろうとしておられ、神と共に正しく確かな人生を生きよと語りかけておられる神の御旨を読み取ることが出来るようになりました。
 一方で66巻全体の中には、あれ?こんなことが書いてあったっけ?と今だに初めて読んだ気になる箇所もたまに登場します。

   思えば長年そうやって聖書に向き合い、様々と取り組む中で、そこに神を見出し、間違いなく神がそこにおられることを確信しつつ、自分の信仰生活が神と共にあることの保証を受け続けていたように思います。信じる者にご自身を現そうとしておられる神を、御言葉の中に共に見出させていただきたく、聖書の学びのお手伝いをさせていただく者でありたいと願っています。

 冒頭の聖句は私が今年年頭に与えられたと信じる御言葉です。詩篇は私にとって特別な存在であり、特にダビデの詩を読む時には一緒に人生を生きて、共に苦しみ、共に喜び、共に神を讃美しているような思いに導かれます。119篇はダビデの作とは明記されていませんが、この長い詩篇も繰り返し読む中にそこに寄り添う思いが与えられて行きます。111節にある「あなたのさとし」はまさしく聖書であり、私にとってはそれは「永遠のゆずり」--嗣業となることを思わせていただいております。
 今年、息子が聖書研究会デビューをしました。私にとってはこの上ない深い感謝な出来事です。「これこそ、私の心の喜びです。」詩聖と共に神の御名を崇めます。
(仙台聖泉キリスト教会会員)