同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(70) —

野澤 睦雄


「さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。」(創世記 3:1-7)

5.救いの再考察

<人間への罪の侵入>

 先に、世界に罪が入ってきた原因として、神が世界をおまかせになった重要な天使が、「神のようになろう」として神に背くものとなり、悪魔、サタンになってしまったと考えられていることを述べました。
 そのサタンに誘惑されて人間にも罪が入ってきたこと、それが冒頭に掲げている聖書の記事に書かれています。それが人間に救いが必要となった理由です。
 サタンは蛇の姿で人間に近づいてきました。その時の蛇の姿がどのようなものであったかは分かりません。サタンが乗り移って・・蛇に宿って・・アダムとエバを誘惑したのでしょうが、神はアダムとエバだけでなく蛇にも罰をお与えになりました。その結果蛇は腹ばいで動くものとなりました。
「神である主は蛇に言われた。「おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」」(創世記 3:14-15)  サタンの誘惑のことばは神がお禁じになった善悪の知識の木の実を食べると「目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となる」であって、「神のようになれますよ」が要点です。

<罪の侵入によって人間に何がおきたのか>

・霊の死
 神は「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記 2:17)と言われました。アダムとエバはその木の実を食べたのですから死んだのです。ですがそれは肉体の死ではなく、罪の宿ることのできる「霊」(人の霊ですから「人霊」と呼ばれます)の死でした。
サタンは「死にません」といって欺きました。サタンは「肉体」の事を言いましたが、神が言われたのは「霊」のことでした。

・罪の性質(原罪)を持つものとなった
 「天路歴程」を書いたジョン・バンヤンはその著書「聖戦」のなかに、「ディアボロス・・・ギリシャ語新約聖書ではサタンもつかわれていますが、ディアボロス(悪魔)と書かれています)は、人霊の町に侵入すると直ちに神の像(かたち)を破壊し、代わりに自分の像(かたち)を立てた」と述べていて、これが正しい聖書解釈であろうと思われます。つまり「原罪」というのは「悪魔(サタン)の像(かたち)」です。

・世のことに目が開かれた・・世の知識をもつものとなった
サタンの誘惑のことばに「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となる」(創世記 3:5)

・霊の世界に関する感覚が失せる
 霊の世界には無知、理解できない、感覚がないものとなりました。

・罪の性質は「原罪」のほかに「古い人」、「古い自我」などとも呼ばれ、「神の御旨に全くは従わない」、「自分を神の位置に置く」「世のものを愛し・・宝とし、追求する」「自分の所有する世のものを誇る」ものです。

・「原罪」と言われる理由
「これはアダムの歴史の記録である。神は、人を創造したとき、神の似姿として人を造り、男と女に彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、彼らの名を「人」と呼ばれた。アダムは百三十年生きて、彼の似姿として、彼のかたちに男の子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。」(創世記 5:1-4)アダムは「神のかたち」に創造されました(5:1)が、堕落してサタンのかたちになっていました。それで彼が子を産んだときは「自分のかたち」すなわち「サタンのかたち」の子を産みました(5:3)。以後ずっとそれが続き、子孫の全てが「サタンのかたち」をもつものとなりました。ですからアダムに宿った「最初の罪の性質」という意味で「原罪」と呼ぶのです。

<罪に陥った人間を救う神のみこころ>

 神は罪に陥った人間を救うために、イエス・キリストによる「贖罪」<十字架による人間の罪の贖い>をお考えになりました。そして六千年の歳月をかけてそれを実現されました。
   神は人間を救われるのですが「人間の自由を奪うことは決してなさらない」のです。強硬なカルヴィン派のひとびとは、神が一方的に救ってしまうとし、それを「無条件の神の愛」であると主張します。しかしそれは人間の自由を踏みにじることで、そのようなことを神はなさいません。それに代えて神は人間が「自分の自由意志でイエス・キリストの贖いを信じて救われる」道を備えられました。ですから救いに関しては「無条件」ではなく必ず「信仰によるという条件」がつきます。

(仙台聖泉キリスト教会員)