同労者

キリスト教—信徒の志す—

読者の広場 <お便り>

— 東京ミレニアム・チャーチ・アシュラムに備えて —

十文字 隆男

製作日 2008年11月17日(月)
お茶の水CLC4F国際ナビゲーター室より
聖書の箇所:新約聖書 ヘブル人への手紙 第5章[HEBREWS Chapter 5]
テーマ:『キリストの叫びと従順』[Jesus's loud cries and reverent submission.]

 今年の11月は、普通なら毎年、精神的病で入院の準備をしていなければならないのですが、「父の学校」のI兄弟の祈りと訪問により、昔の英語教諭の同僚のMA先生の祈りとやはり訪問により、また「父の学校」のたくさんのスタッフのとりなしと、長谷川与志充先生ご夫妻を始め、ミレニアム・チャーチの教会の人達、北本日本基督教会の石川栄一先生ご夫妻と教会員の方々のとりなしにより、元気で過ごすことができており、感謝の念に耐えません。
 ヘブル人への手紙5章7—10節の御言を日本語と英語で紙に書いて、壁に貼りつけたのは、日記でみると、11月10日(月)のことです。その日から、今日まで、朝、昼、晩、日本語と英語で各10、計60回口で唱えてました。つまり420回は、口で唱えてきたことになるのですから、もうよどみなく聖句の暗唱ができます。
「キリストは、・・・大きな叫び声と涙とをもって祈り・・・をささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。 キリストは・・・従順を学び」ました。
[・・・ he(Jesus) offered up prayers
・・・ with loud cries ・・・ and he was heard because of his reverent sub-mission. ・・・ he(Jesus) learned obedience ・・・]
少し乱暴ですが、はしょって書くとこういう御言になります。
 この御言を黙想するにあたり、5冊の本を大まかに再読させて頂きました。1冊目は、ジェームズ・フーストンの「神との友情」で、2冊目はアンドリュー・マーレーの「主の十字架の奥義」、3冊目はジョン・バンヤンの「ジョン・バンヤンによる祈りの力」、4冊目はC.H.スポルジョンの「十字架の上でキリストは」、5冊目は蔦田二雄「朝ごとに主を待ち望む」の5冊です。4冊目までは、「いのちのことば社」刊で、5冊目は「インマヌエル聖宣神学院同窓会」刊行の書物です。
 ここで「御霊に感じた」ことがあるので、それを先ず書かせて頂きます。毎週(木)は、I兄弟の運転で「父の学校」の祈祷会に出席しています。新宿の本部室か、「横浜オンヌリ教会」か、週によってちがうのですが、11月6日(木)の祈祷会は、「横浜オンヌリ教会」で行いました。その時、山中知義牧師(私をこよなく愛して祈っていて下さる牧師さんです)が、開いた箇所がヘブル5章7-10節でした。山中牧師は、「皆さん、叫びをもって祈りましょう。」とおっしゃられたので、40名位の「父の学校」のスタッフは、大声で叫び祈り続けました。「彼らのいた家全体に響き渡った。」(使徒の働き 2:2)ような祈りを、項目別に1時間は祈り続けたので、声も体力も使い果たすような祈祷会になります。けれど、本当に「御霊の満たし」(エペソ 5:18)を体験できるので元気が出ます。翌日、12月のアシュラム会の箇所はどこか、「三浦綾子読書会会報」で調べたら、ヘブル5章だったので、神のご臨在と摂理を感じない訳にはいきませんでした。
 さて本題に入ります。キリストが「大声で叫んだ」という記述は、調べてみると、4福音書中8箇所しかないのです。1つめは、マタイ27:46「イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。」2つめは、マタイ27:49「イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた」。3つめは、マルコ15:34「イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた」。4つめは、マルコ15:37「イエスは大声をあげて息を引き取られた」。5つめは、ルカ23:46「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』」。6つめは、ヨハネ7:37「イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。・・・』」。7つめは、ヨハネ11:43、「イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」8つめは、ヨハネ12:44「イエスは大声で言われた。『わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。』」以上の8箇所です。これ以外にはありません。
 ここで、最重要語句は、マタイ27:46「イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」という語句です。
[... Jesus cried out in a loud voice, "Eloi, Eloi, lama sabachthani?"--which means, "My God, my God, why have you forsaken me?"] (Matthew 27:46)
私は神の報復の御手にあっては、自分が地獄の底にふさわしいことを知っています。けれどもう恐れることはありません。何故でしょうか?天の父なる神は、私のために御子をお見捨てになられたので、もはや決して私をお見捨てになることはできないからです。イエスが私の代わりに極限まで苦しまれたので、私が自分の罪のために苦しむことはもう不必要になったのです。この身代わりの堅固な壁に隠されて、罪人である私自身はこの上なく安心なのです。
 このイエスの叫びの故に、十分な贖いの業が、私を取り囲むようになったのです。
 Hillsongの今年の10月入荷のライブアルバム「This is Our God」の第一曲目「Your Name High —御名を掲げます」JOEL HOUSTON作詞作曲の日本語訳は、次のようになっています。
「あの十字架の上で、罪なきあなたが見捨てられました。罪の鎖は断ち切られ、父なる神の愛によって、死は除かれました。私たちはただあなたの御名を掲げるために生きています。」なぜこのような大胆に賛美できるのでしょうか?繰り返しになりますが、天の父なる神が、私のために御子をお見捨てになられたので、決してもはや私をお見捨てになることはできないからです。
 次にキリストの従順については、BFバックストンが、「ピリピ書講解」の中で、2章6節から8節「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」を引用して、ここにキリストの七重の従順が見られると述べています。七とは、完全数でもあります。
 おお、このキリストの従順を黙想する時、「子羊に、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」と賛美せずにはおられません。

 このシートを、かけがえのない二人の息子、信悟と司、池川豊吉兄、松村千正先生ご夫妻、石黒悦夫お父さん、長谷川与志充先生ご夫妻、石川栄一先生ご夫妻、山中知義先生ご夫妻、堀ノ内菊三郎さんご夫妻、高橋羊吾さんご夫妻、高橋俊潤千花宣教師、ミレニアム・チャ-チの猪爪姉、床枝姉、土屋兄(大熊兄、大西さん)、原ひろ子さんとマリナさん、大和カルヴァリチャペルの大川従道先生ご夫妻、滝山博行先生ご夫妻、金聖守さんご夫妻、広山国臣さんご夫妻、山崎洋一さんご夫妻、小泉金次郎さんご夫妻、青木寿彦さんご夫妻、Migiwaさん、そして「父の学校」のスタッフ凡てに、愛をこめて捧げさせていただきます。

(東京ミレニアムチャーチ 会員、三浦綾子読書会 北本支部委員)

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