同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 神の愛 —

山田 行

「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(コリントI 13:3)

 生また時からクリスチャンの家庭で育ち、教会の中で教えられ、導かれた私です。本当に多くのことを学び育てていただきました。このところまで生かされているのも神の一方的な憐れみのゆえであると思っています。この年を終える今、一番心に与えられている幸いは、「神に愛していただいている」ということです。同労者を編集して下さっている、私の教会の役員、野沢兄が年末感謝のお証の時に語っていた「神は私を愛してくださっている」との言葉が私の心にも溢れました。何がこのクリスチャンの人生ですばらしいのかといえば、「神の愛を知った」ことに尽きるといっても過言ではないと思っています。
 人々は健康になりた、金持ちになりたい、幸せになりたい、いつも人間の側のさまざまな欲望を満たすためだけに骨折って生きていますが、もちろん私自身もそうでした。しかし、そのようなものはすべて備えられて与えられるというのです。どのようにするかは、「私たちの隣人を愛するということ、神の国と神の義を第一に求めること」と、聖書に書かれてあります。つまり、人間には分からない創造者の御心に沿って生きることを求めつつ歩んで生きさえすれば人間の欲望以上の幸いが与えられることを教えられています。
 何をするにも自己愛から始まって報いを求める私には何をどうすればよいのか分からないものでしたが、イエス・キリストの十字架の愛を与えられて罪を許していただき、私のために流された一方的な神の愛の犠牲を通して本当の愛を具体的に教えていただきました。昨年救われた青年がこの一年で何が変わったかというお証の中で「自分以外の人のために祈ることが出来るようになった」という告白でした。この短い言葉の中にすばらしい神の働きがなされていることと、神の深い愛を知った魂の幸いがあることに私は感動を覚えました。
 またこの年は教会に赤ちゃんが与えられました。集会中に声が聞こえると何か嬉しくなります。この小さな魂も母の胎内にあるときにすでに神に聖別され、人間としてこの世に生まれ出ようとする時には神に愛され、救われるようにと、あらゆる機会を通して招かれている魂なのだと思うからです。何て幸いなのでしょうか。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださったのだというすばらしさに胸がいっぱいになります。色々な心配、労苦、思い煩いに尽きない私たちの人生ですが、またこの「神の愛」に身をゆだねて生かしていただきたいと願いこの年も多くの感謝をお捧げして締めくくりたいと思います。皆さんにも神の豊かな愛と慰めと恵みが豊かにありますように祈りつつ・・
(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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