同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

『たまに』or『いつも』
—真実を尽くすことの意味—

石井 和幸

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ 15:12)
「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。」(エペソ 6:5-7)

 昨年秋に、私は教会の高校生から、「子供が生まれて、どのように心境が変化しましたか?」と質問をされました。私は、その質問に対し「上の空にならず、いつも集中力を保つことの大切さ」を痛感していると答えました。
・・・赤ちゃんを車から降ろす時、抱っこする時、お風呂に入れる時・・・自分が上の空だったり、他の事を考えていたりすると、子供を落としてしまったり、傷つけてしまったりする危険性があります。命に対しては、いつも神経を集中させていなければなりません。  私はそれまで、一つの仕事に携わりながら、他のことを考えている場合がしばしばありました。また、週末や、何かプライベートで大きなことがあると、仕事中であっても「心ここにあらず」になってしまう時がありました。ですから、一応仕事をしているつもりでも、上司や周囲にとっては心がこもってないように映り、自分が発する言葉がたとえ正論であっても、誠実さに欠けているものとなってしまったり・・・という場面がありました。
 昨年12月のクリスマス行事は、教会が一体となって取り組んだものでした。クリスマス祝会においては、教会学校の子供達による、手の込んだ劇が今年も上演されました。脚本、キャスト、衣装、大道具、照明、音響。それは一人二人の先生が準備できるものではありません。一つの事を準備するためにどうしようか途方にくれている大人に対して、小学生、中学生が進んで手伝い、形にする姿がありました。女性であっても進んで脚立に登って作業をしたり、力仕事をしたりして、「現場仕事もできるミルフィーユ(注:女子中学生グループの名前)」と呼ばれる場面もありました。
 私達の教会では、長い間、バンドによる音楽伝道、また野球部の活動がなされていますが、「演奏するだけのミュージシャン」 「プレーするだけのレギュラー」は誰一人いません。必ず、楽器のセッティングから片付けが終わるまで、野球も球拾いから最後のグランド整備に至るまで、全員で取り組みます。今回、クリスマス祝会で演じた生徒たちも、『たまに』あるいは『好きな時、好きなところだけ』教会に関わるのではなく、教会で何かあるときは『いつも』そこに身を置き、共に笑ったり、労苦を共有していました。そして、そこに自分の兄、姉や親も共にいました。
 私が会社にいるとき、上の空なばっかりに、周囲に誠意が伝わらなかったように、キリストの福音も『たまに』、『いいかげんに』伝えていたのでは、子供たちに神の真実は伝わりません。いつか子供達にも、『自分の思うままに』生きるか、それとも『神の御手の中で』生きるか選択する時がきます。その時、「いつも真実を尽くしてくれた親、教会の先生、兄姉達」に真の神を見いだすことが出来れば幸いです。新しい年も、そのために祈り続け、この小さき者も主が用いて下さるように、願っております。
(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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