同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第37回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

2. 旧約における三つの職務の考察(つづき)
2.2 預言者(つづき)

「サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。こうして全イスラエルは、ダンからベエル・シェバまで、サムエルが主の預言者に任じられたことを知った。」(サムエル記 I 3:19-20)
 サムエルが預言者に任じられたことが、イスラエル全体の人々が分かった記述です。預言者に任じられるその重さを感じます。
 繰り返し述べていますが、私たちは救われてクリスチャンとなった時、キリスト(神)の人である、祭司、預言者、王に任じられたのです。尻込みせず、それを受け止め、任じられた職務を果たすことを考えるべきです。
 神は、神の国の、今は教会の、職務を重んじられます。
 祭司エリは息子たちのことで、神にお叱りを受けた人物でしたが、祭司としての役目でハンナの祈りに答えたとき、神はそれを重んじられました。
「エリは(ハンナに)答えて言った。『安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。』・・日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして『私がこの子を主に願ったから』と言って、その名をサムエルと呼んだ。」(サムエル記 I 1:17、20)
「エリは、エルカナとその妻を祝福して、『主がお求めになった者の代わりに、主がこの女により、あなたに子どもを賜りますように』と言い、彼らは、自分の家に帰るのであった。事実、主はハンナを顧み、彼女はみごもって、三人の息子と、ふたりの娘を産んだ。」(サムエル記 I 2:20-21)
 先に述べましたように、カヤパはその時の大祭司であったので、キリストが私たちすべての代わりに死なれるとこと預言しました。 「しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。『あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。』ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」(ヨハネ 11:49-52)
 これらの旧約の働きのための職務は、クリスチャンすべてのものとなりました。私たちが職務としての働きの場を与えられたとき、同様に神は私たちを重んじてくださるのです。
 今、教会は、祭司、預言者、王に代わって、牧師が立てられています。またそれぞれの教会の中での取り決めとして、役員や長老と言われる職務、教会学校の教師などの職務が設けられていますが、それらの職務もまた神は重んじられるのです。
 視点を預言者に戻しましょう。
 神はご自身の業を、人を介して行われます。
 「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」(アモス書 3:7)と書かれているとおり、神は事を行われる前に、それを預言者にお示しになりますが、その実現にも預言者の働きを求めなさるのです。
 エリヤの例を考えてみます。
 ヤコブはその手紙に、
「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(ヤコブの手紙 5:17-18)と述べて、イスラエルに雨が降らなかったことも、降ったこともエリヤの祈りによることを示しています。
 雨が降らなかったことと神のみこころとの関係については、列王記に直接書かれていませんが、降った方のできごとについては、それが神のみこころであったことが記されています。
「それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。『アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。』」(列王記 I 18:1)
 神はみ心の実現を、エリヤの祈りに託されたと理解すべきです。
 イスラエルのバビロン捕囚からの帰還について、考えてみましょう。
それは既にエレミヤによって預言された神のみ心でした。
「この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。」(エレミヤ書 25:11)
そしてその実現の陰に、預言者ダニエルの祈りがありました。
「メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。・・・」(ダニエル書 9:1-19) この後にダニエルが祈った長い祈りが記されています。ダニエルの祈りは聞かれました。ダニエルのもとに派遣された天使が、彼の祈りが神の前に届いていることをしらせましたが、さらに救い主の到来まで「七週」であることを伝えました。また、その後に起こることも預言されていますが、この部分の解釈は分かっていません。
「それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。」(ダニエル書 9:25)
 ダニエルに告げられた「七週」後の出来事である、イエス・キリストのご降誕について取り上げてみましょう。
 救い主のおいでになることは、ダニエルに告げられた通り、その時期が示されていましたが、明確に解釈することはできませんでした。お生まれになる場所も示されており、ユダヤの学者たちも場所については理解していました(マタイ 2:4-6)。
 そのイエスのご降誕の実現の陰にも、祈りがありました。
「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
『主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。・・・』
・・・また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。・・・そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。」(ルカ 2:25-38)
 以上三つの例を取り上げましたが、神はみ心の実現に、人を用いられます。用い方は様々でしょうが、預言職としての祈りは最も重要のものの一つです。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(ヨハネ I 5:14)
 私たちは十字架の贖いによってクリスチャンとされました。それは預言職に任じられたことを意味するといっても、全員がエリヤになったのではありません。しかし、「これらのわたし(イエス)の兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとり」(マタイ 25:40)のために働くことが、私たち全員に対する神のみ心です。与えられている信仰の馳せ場の中で、神のみ心の実現のために、祈り、労させていただくことを、神は私たちに期待しておられます。
(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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