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ショートコラムねだ

— 改善提案 —

 日本企業を隆盛ならしめたものに「工程改善」がある。各部門の担当者以外の社員の気づくことも取り上げる手段として「改善提案」制度が考えられた。つまり責任のある範囲のことはもちろんであるが、自分の持ち場ではない、自分に責任のないことにもこれはよいと思われることがあったらそれを提案するのである。
 長く企業に勤めたが、仕事はすべてどうすればもっとよく--原価が安く、加工・処理・実行を速く(短時間で)、品質・内容・出来映えが良く--なるか、という視点で見ていた。それは結果として、組織や製造工程とか誰かの仕事の欠点を探すことになる。欠点がなければ改善もない。
 筆者はその習慣が身に付いてしまっていて何かをみるとすぐ「改善提案」したくなり、すぐ口に出してしまう。たとえば、若者たちのバンドのコンサート演奏曲の選曲について「こういうことを考慮して選曲するといいですよ」、石井矗兄の写真に「こうするといいですよ」、と言ったことが記憶に新しい。
 改善提案はかならず採用されるとは限らない。それを実行するには、費用がかかり、投資を回収できる効果あると予測されなければならないからである。同様に、普段口にすることも、みな採用されると思ってはいない。だが、なにがしかの影響力を与えることになる。
 改善提案を受け取った場合、人はそれで生きるとは限らない。
 バックストンについてよく知られている逸話がある。
<パン食などしていない昔のこと、食卓に出されたバターのボールを、日本人の来客が、それがどういう使い方をするか知らなかったので、--それは後から出てくるパンに塗るものであった--目の前にだされたらそのまま口に放り込んで食べてしまった。するとバックストンも同じように食べた>。彼は西洋の生活を客人たちに教えることよりも、彼らが「生きることができること」を優先したというのである。「こうするものですよ。」と教えたら、客人たちはきっと恥ずかしい思いをしたことであろう。
 これぞ正しく筆者に対する「改善提案」と感じる。改善提案をしたとき、それが次の作品・行動・・の改善のもととなるなら、その提案は生きたのであるが、そうでなかったら無用のものである。では無用のものとなることを恐れて、口をつぐむことが最善なのであろうか? 全く語らなかったらよい提案も日の目を見ずに消失する。だから、その改善提案は<人を生かすものとなるか>と一呼吸置いて語ればもう少しましな提案になり、これが最善であろう。
 長年身に付いた習慣を変えることに困難を覚えつつ・・、そんなことを思っている。

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