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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—23

 2013年、新しい年を迎え、この年も豊かに語っていただく一つ一つの事柄を信仰生活の糧とさせていただきながら歩みを進めさせていただきたいと思います。

 申命記30章が開かれました。モーセの第3の説教、改めて主を信じ歩む、主はどのようなことがあってもイスラエルを離さない。手本のように表している。その中にいるということは幸いという一方、見本とならなければならないということである。信仰者の子供たちとして生まれてくる。神が恵み豊かに導こうとしておられる。どんなに神から離れようとも悔い改め戻って来るならば受け入れられる。では何をしていても良いのか、そうではなくへりくだって神を求めていくならば成される。申命記30章14節の「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」とあるように、あなたがその気になればそれを行っていくことができる。40年の荒野の生活の後、信じることができない時に違うものを据えてしまう。誰でも安閑としているわけではない。モーセの説教のように大枠というものが私たちの中にあり、細かなところでどのように考えて行ったらいいのだろうかというものを持っていなければならない。

 大学受験真っ最中のH兄からの質問です。「自分が最近思うのですが、今までやってきたもので使わなくなるものがある。受験の中でこういう勉強をしていたけれども選択によってはいらなくなる。どういう道に進んで行ったらいいかと大きいものを決めていく時、何を持って決断していくのか先生の考えを聞かせて下さい。 Hくんの考えを知らない神ではない。自分の望んでいるものをどうしてもと祈って、そうならなかったら神を捨てるのか、そうなったとしてもこんなはずではなかったということも出てくる。人間はどうなるかなんて、だいたい決められない。目の前に石があって、こけたことが良いかもしれないし、大切な決定の後で人は後悔もする。今が良い悪いで決めてはだんだんと貧しくなる。いらない勉強なんてないと思う、それをするからそれに関連した次の勉強ができるし、そんな合理的な仕事はない。足しにならないことでも積み重ねると役に立ったり、いやなこともやっているうちに頼まれやすい顔になる。心にあることが顔にも出るし、しぐさにも出る。それらすべての頂点が神、神がどうして下さるか。与えられている選択肢と総括して考えて行ったら良いと思う。と語られました。他の方の質問の中で、聖書は聖書日課で読むだけでなく、どう使うか、そのことを身につけないと近くにあってもそれが生かされていかない。若いうちにそのことをしたらいいし、もう一歩、聖書をどう自分のものにしていくかが大切だと思いますと語られ、この年もみことばに仕えていくお互いでありたく願います。

(執筆担当 茂永 和子  仙台聖泉キリスト教会会員)

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