同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞理由を問う(15) —

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(2テモテ3:16-17)

 聖書の教えを信じ、戒めを守り、神の喜ばれる作品に変えられるように自分を矯正と義の訓練に渡すことが、神の恵みを豊かにいただく道です。聖書を信じるということについてもうひとつ付け加えておきたいと思います。
 ある方々にどのように信じているか聞く機会がありましたが、彼らは聖書を自分に都合の良い所しか信じていないし、罪を悔い改めたこともなく、神に罪を赦され義とされる経験を知らず、新生を知らない人々であることが分かりました。しかし、本人たちはそれでも自分はキリスト教徒であると宣言しているのです。その理由は、自分は「イエスを主である」と宣言できるからだということでした。「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。」(1コリント12:3)がその論拠です。
 しかし、イエスはこう言われました。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-23)自分がそうだと思ったことだけを信じ、それ以外は捨てる、聖書に書かれている戒めに反しても心に何の痛痒も感じないで、どうしてイエスのいう父のみこころを行う者でありえましょう。
 正確な数字を調べてはいませんが、悲しいことにその方々と同じような信仰の持ち主が、日本のプロテスタントの過半数を占めていると聞いています。
 キリスト教は、十字架の宗教であり、救いの宗教です。罪からの救いこそがその入口です。聖書のことばを信じることがイエスを信じる鍵です。聖書を信じないでイエスを信じることはありえないのです。キリスト教は思考のみにとどまるものではありません。実存、実存とさわいでいる、その実際に存在するものでなければなりません。罪の悔い改めも、神が、今、本当に罪を赦されることも、新生のいのちを与えられることも実際のことでなければなりません。今天国が自分のものであることを知っていなければなりません。遜って聖書のことばを通してイエスを信じる者に、神は実際にそれをお与えになります。聖書をこねくりまわすことやめ、書かれていることを信じるこの道をゆかれることをお勧めします。

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