同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

10年振りのスキー

石井 和幸

「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」 (マタイ25:40)

 正月休み、家内の実家がある山形に行った際、スキー用品店に寄りました。 1月14日のお休みに、教会有志で出かけるスキーに、私たち家族も参加するためでした。 娘は、スキーがどういうものかも把握しないまま、「真実も今日スキーいきたい!」 と言い、母親に 「今日は山形おじいちゃんの家にいくから、また今度だよ。」 と言われるくらい、テンションをあげていました。教会の主力である有志は例年、1月~3月のお休みに家族ぐるみでスキーに出かけていました。しかし私は、独身時代から何かと理由をつけて、ずっとスキーに参加しないでいました。スキー自体は楽しいのですが、(用意が面倒、経費がかかる・・・)と思いつつ、数えてみると、スキーに行かなくなってから10年位経っていました。昨年も、「子どももまだ小さいし、仕事や超教派団体の会議準備・・・その他もろもろで忙しく」と理由をつけ、「お父さん、お母さんと遊びたい!」 と言い続ける娘との関わりを希薄にしていた冬でした。「スキーがだめならそりでもいいじゃない!」 そういうアドバイスも頂きつつ、子どもをないがしろにせず、関わるときを確保する大切さを痛感していました。
 年が明けて1月、10年前のスキーウエアーはもう着れないので、スポーツ用品店で試着をして、結局合うサイズがなくてフェイスブックでつぶやいてたりすると、教会の先生方が私の為にウエアーを探してくださいました。前日の夜、娘に、「明日、スキーに行った後、温泉にいこうね!」 と言うと、温泉大好きな娘は、「えっ! おんせん!」 と、目をキラキラさせていました。当日、山形蔵王スキー場は、山形出身の家内いわく、「今日は地元の人はコタツの日」というくらいの悪天侯でした。それでも、人生初のスキー場に降り立った娘は大はしゃぎ、息子は物珍しそうにあたりを見回しつづけました。私は娘とそり遊び、家内はショートスキーをはいて息子を抱っこして、ゲレンデの片隅でちょっと滑ったらちょっと上って・・・の繰り返し。そして、レストハウスで長めの休憩(笑)同行した教会のみなさんの計らいで、私は午前と午後に1回ずつゲレンデを滑走・・・といっても、20mくらい滑ったら止まってハアハア、また20mくらいすべってゼエゼエ・・・自分の体重と運動不足を痛感しました。家内はゲレンデを1回滑走、その間、私は(お母さんじゃなきゃ嫌だ!)と言わんばかりに泣く息子を抱っこしてレストハウスとゲレンデをいったり来たり。泣きやんだところで家内が帰って来て、結局本当に家内のスキー技術は上手なのかどうか確認できないまま終わりました(笑)。午後から、小学生の頼子さんが娘のそり遊びに付き沿ってくださいました。頼子さんはどうすれば上手に止まれるかを娘に教えながら、娘の背中を押したり、そりを引っ張って先導したり。滑ったあとは一緒に登ったり・・・普段教会にいるときと同様、楽しく娘に関わってくださいました。「まみね、頼子ちゃんのこと応援しているからね!」 娘の一言を耳にして私は、一日の疲れが吹っ飛ぶ思いがしました。帰路、子どもは二人ともぐったり。 仙台に着くまで起きる気配がなく、(そういえば私が4歳のころも遠出した帰り道は家までぐっすりだったな)と思いつつ、家内と、「温泉にはいかないでこのまま帰宅しよう」と話していたところ、娘が目を覚まし、「温泉にいきたい」 と主張して、結局最後は仙台市内の温泉に行きました。
 はたから見れば、一般的な家庭のとある休日・・・というところですが、スキーに出向いた一日を振り返り、私は、子どもとの関わり、そして教会の皆さんとの関わりを、今まで無難なところで終わらせようとしていたところがあったと反省しました。人によってはそれもまた真なり、なのかもしれません。けれども、あえて労を費やして「出向く、行う」ところに、神から与えられた、普段の生活とはまた違った楽しさが、私のみならず、子どもという「人格」に与えられることが分かりました。何より、「人格との触れ合い」に労を払い、人格と関わって得たものによって神の導きを知り、神が人格を通してわざを成してくださることを実感する。だから、神に従うがゆえにまた人格と関わる・・・その真理を、1月は確認させていただきました。春に向けて、なお祈りつつ、神が与えてくださった隣人と教会に仕えていきたく思っております。

真実と謙悟

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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