同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第86回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

3. 新約における三つの職務の考察(つづき)
3.3新約の王(つづき)

 私たちはイエス・キリストの十字架の贖いによって救いの恵に与り、罪を赦されて義とされ、新生のいのちを与えられます。そして聖霊がこころの内に住んでくださって、神の子とされます。そうしていただくことについては、祭司の役割が大きいのです。 預言者は、神の子たちに神のみこころを教え、そして御霊の剣である神のことばを授けるでしょう。
 信仰は生活に表されなければなりませんが、その段階では王の役割が大です。
牧師が信徒の生活の信仰にとって重要なことについて何もしなかったら、王の役目を放棄しているのです。親が子どもの生活の信仰にとって重要な部分を放任していたら、それも王の役目を放棄しているのです。
 先に、金銭に関する問題を提起しましたが、集会出席についてはどうでしょうか。
礼拝をはじめとする集会に出席することは、信仰生活を左右する決定的な重要事です。もちろん、集会出席とか日々個人的に聖書を読む、祈りの時を持つというようなことは、いわば器であって中身ではありません。手段であって恩寵そのものではありません。器より中身が大切であって、その時その時の状況によって、対応の仕方を変えなければならないのですから、杓子定規に、何が何でも集会を守れと勧めているのではありません。しかし、集会は大切で、たいていの信者は長く集会から離れていると、やがて信仰そのものを失うか、なんの働きもしないかすかな信仰にとどまるようになります。
 繰り返し述べていますが、学校に--たいてい大学ですが--通っている時期の青年たちは、よそにいきたがります。学業を終えると、よその地域に就職先を求めて、教会からいなくなります。成人の信者たちも、しばしば職業のために別の土地に移り住み、教会からいなくなります。これは、彼らの信仰にとって決定的に重要なことです。本人も自分が信仰からそれるであろうと思わないで、教会を離れる選択をしていることが多々あります。キリスト教はすべて本人の意志の上に成り立っていますから、勧めても聞き入れないことがあるのは当然です。しかしこの決定的重要事に、牧師も親も関与しないとしたら誠に残念なことです。よい選択をするように勧めても、どうしても聞き入れなかったなら、自分のもとから<去らせる>ことが必要です。「そのなすにまかせよ。」(ホセア4:17)

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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