同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 神がともにおられるから  —

山田 大


「神は仰せられた。『わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。』」(出エジプト記 3:12)

 今年はいよいよ一本杉教会での福音の働きが始まりました。私自身も新たな思いを持って信仰に立ち、勇敢に戦おうと立ち上がっていました。
 しかし心の内ではネガティブな思いが幾度も私を襲い、強く立とうとする自分とのせめぎあいが繰り返されて来ました。
「孤独」という表現とも少し違うように思いますが「自分ひとりで何ができるのだろう、また前のように何も実を結ばずに終わってしまうのではないか、結局私は役に立たない何も生み出せない、そのような者なのだ」その思いは私の心の中で「恐怖」という形となって私を苛みました。
 教会が上手くいく形は一切見えず、そうでない形はありありと私の目に浮かび上がります。それは一見うまくいっているように見えます、賑わいや人の出入りはあります、が肝心のたましいが全く救われていかない、誰も教会に定着する人がいない、否定的な思いのみが私の心に去来します。
どうしたらいいのか。自分は強く立っていたはずなのに、何故こんなに揺るがされるのか。

 いつものことですが、神は私が悩むことは承知しておられるように思います。そして祈りの手を上げることを待っておられ、豊かに示そうとしておられます。今年もかなり後半になってからですが、色々と語りかけをいただくようになりました。
 冒頭の聖句は今年与えられたと信じる御言葉です。モーセが神の使命を聞かされた時、何故自分のような小さな者がそのような大きな使命に遣わされるのか、一体自分は何者なのか、と神に問うている時に神がお答えになった言葉です。
 神のお答えは「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。」つまり、あなたが何者か、大きな者か、小さな者か、それは問題ではない、誰があなたを遣わすのか、誰があなたとともにおられるのか、それが問題なのだ、ということです。そのことに思い当たった時、じわじわと私の心に染み渡っていくものがありました。
 この働きも私が役に立つかどうかが問題なのではない、神が事を始めようとしておられるのだ。私はひとりではない、大きな神の働きの中にいる、その大きな渦は中にいる者に全貌が見えるものではないが、神の目にはその全貌が見えている。神の働きは私が評価するものではない、実を結んだかどうか、それは私が決めることではない、そのような思いが涙と共に私に押し寄せました。それは神からの豊かな慰めと励ましでした。

 確かに神の働きを人間が評価することは出来ません。けれども一方で聖書の神は、歴史の中でそれを信仰者の目にわかる形で見せて来られたのではないだろうか、との思いも与えられています。それは私が生きている間のことかどうかはわかりません。たとえそれが遠い未来のことであったとしても、私は今そのことを喜ぶことが出来ます。それは、私にはそのような未来を委ねることの出来る同じ信仰に立つ人々を神が教会の中に多く与えて下さっているからです。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」 (ヘブル 11:13)

(仙台聖泉キリスト教会 会員)