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Q&Aルーム

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-137  —

山本 咲


列王記Ⅰ 7章

 6章には神殿の建設について書かれているところであった。そして7章1節からは宮殿の建設について語られている。前回も語ったところだが、ここに書かれた480年目とはイスラエルがエジプトで奴隷であったところから、神によって解放された年から数えている。彼らはその出エジプトこそ、イスラエルの建国であると信じ、このようにしたのである。6章から続けて読んでいると混乱するようだが、割り込むようにこの章の初めは宮殿の建設についてのことが書かれている。そして13節から再び、神殿の建設についての話に戻っていく。ここでツロのヒラムという人物が連れてこられ、神殿に必要なものが作られていったと書かれている。ここで語られているヒラムはツロの王のことではない。ナフタリ族のやもめの息子、父親がツロの出だった。彼は異邦の民であったが、彼に与えられた賜物のゆえに、この働きを任せられるにいたったのである。
宮殿は13年、神殿は7年合計20年かけて、エルサレムの街に造り上げられた。ダビデは戦いの人であり、彼は戦いによって勝利し、戦利品を獲た。ただし、彼は神殿を建てることが許されなかった。彼が戦いによって多くの血を流したからである。それゆえにソロモンにその働きが継承されたのである。そしてここで書かれた宮殿のことだが、それまでどのような形だったか、簡易的なものだったのか、宮殿自体が整っていなかったのかはわからないが、ここで確かに宮殿が建設されたのである。神殿は力を入れて準備がある程度整っていた故に、7年でその働きが終えられたが、宮殿には13年もかかってしまった。しかし合計20年をかけてこの時に確かに神殿と宮殿がエルサレムの地に整えられたのである。宮殿が神殿と共にあるというのが、ダビデ王家にとっては重要なことであった。神とともにあることを重視し、神殿のそば近くに王宮を建てたのである。真の神を中心とした王国であったのだ。ソロモンの時代はすべてが繁栄で終わらなかった。晩年には衰退の時代も来る。しかし、ダビデ王家は4世紀ほどの間、脈々とそれを繋ぐことができた。対して、北イスラエルはサマリヤに首都を築いたが、その王朝は頻繁に変わっていた。ここには大きく神のそばにいるということがかかわっているだろう。ダビデ王家が南ユダの地において継承し続けられたのは、神のそば近くにいるゆえだったのだろう。
人は自分に都合がいい時は近くにいるが、都合が悪くなると離れてしまうものである。私たちの現実の信仰生活でもそのようなことがある。私たち自身の問題ゆえに神のそば近くが居心地悪く感じることがあるのだ。私たちを神から遠ざけてしまう罪を取り除くためにも、日々悔い改め、神のそば近くに生きることができるようにしていくことが私たちには必要なのである。だからこそ、ソロモンは王宮を神殿の隣に建てたのだ。これこそかれの信仰告白である。そのような信仰の姿勢を覚えさせていただきたい。ダビデ王家はイスラエルの神信仰のみで歩み続けたわけではない。時にはその道からそれてしまう事もあった。しかし、神の哀れみは400年間ダビデ王家をつなぎ続けてくださったのである。
折があるならこの神殿がどのようなものであったのか、絵などを通して見てみるのもいいだろう。この7章のところに記されているように神殿の横には確かに王宮がある。神を恐れるものに、また神とともに歩むものに神の祝福が大いなるもの、豊かに与えられることを覚え感謝し、なお信じて歩みたく願う。


Q:信仰生活を営む中で、聖言の方を自分生き方に当てはめていると感じることがあります。説教の中でも語られて、自分の中で変えなければならないと感じることもあるのですが、やはり主観というか、自分の価値観の範囲から出られていないように思います。どのようにしていけばよろしいでしょうか。

A:私は良く話しているが、聞く姿勢を持ち続けることや、教えてくれる相手に対しての姿勢が大切である。相手に対して誠意をもって応えていく必要がある。「聞きます聞きます」と言っているのに右耳から入って左耳に抜けているようだったり、結局何も従っていなかったりすると、周りからも言っても無駄だと思われるようになる。また時には疑問をぶつけることもあっていいが、相手との関係を考えたうえで行っていくほうが良い。どうしても自分には納得できないということも、相手に伝え、それでどのように変わるのか、それでも従いなさいと言われるならば、それに従っていかなければならない。そうせずにいると、結局あなた自身の価値観から抜け出せずにいるのだと判断され、何も言われなくなるのである。それは怖いことだ。そのままでいると主観の中に埋まってしまい、周りの人が困るような状況が起こっても本人は全然関知しないという最悪の状態になる。
またキリスト教は憐れみや赦しの宗教であることを取り上げて、相手に自分をゆるすこと、受け入れることを強要する人がいる。しかし、本来の宗教の役割とは、相手を思い通りにするのではなく、自分がまずそれによって整えられていくことが必要なのである。もちろんその中で相手に注意をするときがあってもいい。しかしそれは、愛の関係の中で思うゆえであり、相手が罪に陥ってしまうことを恐れているということが背景になければならない。ただ相手の足りない部分をあげつらっているようではいけないのだ。そのままでは関係も悪くなり、効率も悪くなるのである。また家庭によってはその環境の中で育つ子どもにも大きく影響するのである。だからこそお互いが主観で生きるのではなく、その分かち合いが必要なのだ。
日本でも今、個人主義が多くなっている。昔はテレビを見るのも一家に一台をみんなでみていた。しかし、今はそれぞれに一台ずつあって、それでよくなってしまっている。環境的に裕福になったことを喜ぶことは確かであるが、それゆえに失われているものも私たちは自覚しなければならない。時には、あえて不自由のような環境を作っていくことも考えていかなければならないのだ。そうでないと、親が供給してくれるのをただ受けて育ち、そのまま独り立ちしていく者たちは「自分も一端やっている」と思うが、実際は相手との関係を確立する方法を知らないまま成長してしまい、孤立してしまうのである。親はあえて兄弟間で争う環境を設定してもよいし、逆に子どもの要求を呑まないで自分の要求を通すということをしながらコミュニケーションをとったり我慢させるなど、まず家庭でそのようなやり取りができる環境を整えていく必要があるだろう。そうでなければ、私たちの生活の中でしみついている個人主義の弊害を拭い去っていくことはできない。「もういいんじゃないお互いで」とか「一緒じゃなくてもいいよね」となってしまう。夫婦も「夫婦」という肩書が利便的に必要だから夫婦になりましょうというような関係になり、家庭も家族の在り方もそうなってしまう。だからこそ、親のすねをかじるだけかじってさらっと離れていくような関係しか築けなくもなったりするのだ。
主観は究極的に悪いものではない。ただ、それに固執してしまうことや、暴君のようにふるまうことによって悪影響を及ぼすのである。だからこそ、共生していくためには互いに分かち合うことや、考えをすり合わせ譲っていくこと、相手の意見を聞く姿勢を持ち続けることが必要なのである。その背後には相手を尊敬する心、お互いを尊重し、大切にする心がある。そのような人は社会でも用いられる。それは神の祝福である。神は私たちに互いを愛することを求められた。だからこそ、それを実践するものがその祝福にあずかることができる。これこそ神のシステムである。これを信じずに実践する者たちももちろんいて、それにより社会で成功する者もいる。ただ、それは最終的に手に入る利得を目的としたゆえの行動である。しかし、私たちは神の求めに従うことを目的とし、歩みを続けていきたく願う。それで最後に同じ立場に立ったとしてもその二つには大きな違いがある。私たちはなお神とともにその愛のみ手の中に生き続けていきたく願う。


Q:イスカリオテのユダの話が先日の礼拝で取り上げられていましたが、彼の在り方も偏っていたのでしょうか。

A:確かにイスカリオテのユダは偏っていた。ただ、当時の弟子たちもみな偏っていたのである。イエス・キリストに対して裏切り行為を直接的に行ったユダだけでなく、「イエス・キリストの弟子か」と問われて三度「違う」と答え、間接的にイエス・キリストを裏切ったペテロもさっさと逃げてしまった多くの弟子たちも、皆その自らの罪と対峙せざるを得なくなった。しかし、そこでユダとほかの弟子たちを分けたのはその終わりを自分で決めてしまったということがある。そのようなことを私たちは様々なことと結び合わせて考えていかなければならない。ユダがそのような決定に至ってしまったことに彼の「この罪は死以外償う方法はない」と決めつけてしまった。そこに彼の偏った主観があったと捉えるならば、そう結び付けてもよいだろう。私が先日取り上げたときは主観ということに対するメッセージではなかったが、色々なとらえ方があってよいと思う。ただ、それを考え続けていくことが大切なのだ。答えが出ないことを持ち続け、なぜかと問い続けることが大切なのである。人はどうしてもすっきり答えが出ることを望む。しかし、考えていくこと、考えが変わっていくことを幸いとしていくことが必要なのである。そのうちに色々な答えが出てくる。同じ問題に対して考えていても20代の時と30代の時、50代の時とまた変わっていくのだ。しかし一回腑に落ちてしまうとそれ以上考えなくなる。だからこそ、答えを出さずにアバウトにとらえたり、こうかもしれないと考えてそれを持ち続けていることが大切なのだ。考えていることや、取り組むことを苦手としている人は気を付けていかなければならない。苦手は苦手でもいいが、それをやめてはいけない。どうしたら好きになれるだろうか、克服できるだろうかと考えるのも大切だろう。そうやって避けずに取り組んでいくと人間は変わってくる。その中で私たちを取り巻く景色への見え方も変わり、考える力もついてくる。一人で悩むことに行き詰まったら誰かにそのことを話してみることもいいだろう。そこで人の考えを参考にしたり、自分の考えの浅さに気づいたり、出会う様々なものを吸収してまた更に成長させられることも起こってくる。そのようなことが大切なのだ。
子育ての真っ最中の人は乳幼児期の子を目の前にしたとき、その出来事に取り組むだけで精一杯になる。しかしそこから、成長し、すべてのことに直接的に手をかけなくてもよくなったとき、これからどうするかなどを考えていくとよい。今まですべてに手がかかる子どもに費やしていた時間を何に変換してくのかと考えるのだ。そうなっていないうちから考えていかないと、なってから空いた時間に何をしようかと考えるとあっという間に2、3年は遅れてしまう。その時間はもったいない。今は本当に子どものために時間を使っていながら、同時にやらなければならないことも工夫して行っているからその懐はとてつもなく広い。だから子どもに割く時間が少しずつ減っていったときにその部分に何かをきちんと入れていかないともったいない。減ったのに何も入れないでいるとその膨らみはどんどん小さくなって結局何も入らなくなってしまうのだ。切羽詰まって限界までやっていても今できているのだから、同じように実際は時間をほかの何かに費やすことができる。しかし、その未来を考えずに今過ごしていると、その時が来て、何を入れようかと考えているうちに「これ以上はできない」と思い込むようになって、本当なら限界まで取り組めば手が届くはずの努力もできなくなってしまうのだ。それで結局どんどん小さくなった手では何もなすことはできなくなる。大いに気を付けていっていただきたい。


Q:ダビデは子どもが多くいましたが、継承したのはソロモンでした。それはダビデが直接的にソロモンにかかわっていたとかそのようなことはあったのでしょうか。

A:ダビデは子育てに決して成功した人ではない。そうであるならば、彼は息子であるアブシャロムに殺されそうになることは無かった。ではソロモンにダビデが必要以上に関わったり、手を加えたりしたのかというとそうでもなく、そこに神の選びがあったと捉えるほうが良いだろう。
人格は思い通りにはならない。思い通りになると思うことが間違いである。遜って神に寄り縋りながら、侮らずに行くことが大切である。私は継承した側として老牧師の話をするが、老牧師はきっと自分が信仰の継承を成功したとは思っていなかっただろう。ただこの一事を恐れ畏み生きていた。私たちの懐は自分が思うほど大きくはない。人は子どもを抱えられると思うかもしれないが、そのためにはそうとう心が広くなければならない。わたしの結論としては子どもを腕の中に囲うことは難しい。決して抱えられるものではないのだ。だからこそ、神の憐れみの中に生きていかなければならない。そう言うと、「では私たちが何してもどうにもならないのですか」となる。答えは「その通り」である。ただだからと言って「じゃあ私は子どもの信仰に対しては手を引きます」というのは問題である。先日ある兄弟の証の中で彼の両親の信仰について語っていた。彼の言葉をそのまま借りると「足らないところも多く、偏った信仰」だった。しかし、その中でも彼の両親は彼に教会に行くことを求め続け、妥協しなかった。他に欠けたるものは多くあったが、神の前に遜っていくことを大切にし続けたのである。それゆえに兄弟は教会に来続けた。両親が説教を熱心に聞いていたかといえばそうでもないし、右から左に流れていたこともあっただろう。しかし、神の前に出続けたのである。それゆえに神は彼を憐れまれ、愛し、結果として、彼も、彼の一人娘も信仰を持って神の前に立ち続けている。
神の愛や憐れみは私たちがそれに対し、「なぜあの人にあなたの愛、憐れみがあるのですか」というものではない。神がだれを愛そうと、憐れまれようとその事実以外何も推し量ることはできない。誰かが「なんであの人?」と思っても、神にはその人を愛する理由があるのだ。それは私が誰かを好きだといってその誰かのために何かをするのと同じである。私にはその人を愛する理由もその人に愛ゆえに何かをしてあげる理由もあるが、ほかの人には理解されないかもしれない。ただ、それを理解してもらおうとも思わないだろう。人が何を言っても別に構わない。私がその人のために何かをしたいのだという思いは変えられないだろう。ただ先ほども言ったが私たちが何かをしても無駄だと思ってはいけない。私たちと神との関係は極めて個人的な人格同士の交わりと似ている。私たちがある人格を思って祈り、願うならば、神が私たちを思うゆえにその御手を動かされるということもある。または、私たちがそのように生きる姿勢を見て、その人格の心が神に向くときもある。全部が全部かなうとは言わないが、私たちがそこに捧げたものを神は覚えていてくださるのである。
ただそうやって生きている私たちの信仰の営みにも幅があり、信仰に燃えて、「火の中でも水の中でも行きます」という時もあれば、ちょっと水に入っただけで「溺れてしまう」と恐れてしまう時もある。ただ、その日々の中でも神がともにあることを自覚したり、神の大いなる腕に抱かれ、憐れみを受けたという感覚を持ったりすることもある。それはそれぞれの信仰が神との間に豊かに行われるゆえである。しかし一方で、私たちは個人の信仰が進むと、ほかの人は視界に入らなくなる。それが行き過ぎてしまうのもよくない。だからこそ、私たちには教会が与えられている。そこで信仰者が互いに集まって、お互いをよく見合い、観察しながら、神の幅広い憐れみや愛がどのようにそれぞれに注がれているのかを見ていくことでそれを捉えることができるようになるのである。そうしてみていくと、神の愛は本当に多彩で、色々な方法を通して私たちに注がれている。新約の時代は教会を通し、神もイエス・キリストも様々な形でご自身を表しながら、同時に、私たちとの関係を示しておられるように思う。
話を元に戻していくが、ダビデとソロモンとの関係は特別深かくなかっただろうと思う。ただもしかしたら、ソロモンの教育係がナタンであった可能性がある。そして彼が王になるために聖言を教え、神を教え、信仰を教えたかもしれない。時に子どもは親が直接育てるよりも、人に預けたほうが良いこともある。親はどこか一面甘さが出てしまうところがある。それでいくと他人のほうが目的をもってきちんと育むのである。ただ一方で他人はどこまで行っても他人なので関係性が薄いこともある。本来親が育てるべきと言われている部分もあるから、そのあたりの見極めは難しいかもしれない。しかし、何かを教わるときにはその道のプロにきちんと教わることが重要になる場合が多い。そういう意味では親の手を離れることも必要である。初めに語った神殿のそばにソロモンが王宮を建てたように、神のそばにと願うならば、教会の中に子どもを置いておくべきだろう。母親や家庭に囲ってしまうのではなく、様々な人の手に触れ、何より、神の手に触れる機会の与えられる場で育てていくことが必要だろう。


Q:新約聖書のヨハネの福音書14章1節「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」 この聖言を読んだときに、弟子たちの動揺する姿にイエス・キリストが掛けてくださった言葉なのだと思います。日々動揺しない、不安定にならないようにしていく秘訣は何ですか。

A:聖言に照らし合わせれば、イエス・キリストを信じ、神を信じることである。信じるということはいたずらに何回も言えばいいものではない。先ほど語ったように、火の中水の中どこにでも行きますという信仰の状態もあれば、もう足元が少し濡れただけでも溺れると心配になるときもある。ただ、そこまでいくとあまりにも愚かな姿である。私もここ近々あなたが動揺するような出来事が多く起こったことを聞いている。私から言えるのはまず、伝道師の先生と共に、取り組んで行けばよい。物事がそれによって動き、それによって「なるほど、このように物事は動くのだ」「こうしていけばいいのだ」と気づくことができる。それによって恐れなくてもよくなるのだ。何に自分が恐れているのか、どうすれば、恐れなくなるのか、どう切り替えていくのか、そのような手を打っていかなければならない。なにも対策せず、ただ恐れているだけでは意味がない。恐れる出来事に対処する方法を考えていく必要があるだろう。そうでないと恐れに負けて今まで登ってきた信仰の段階を一段降りなければならなくなる。伝道師はそうならないように対処法をあなたに教えている。逆にそれを乗り越えてまた一段上がっていけるようにと願っているのだ。この段階は意外と一段落ちるとガタガタと二段、三段落ちてしまうことがある。そうなると同じところまで戻るには多くの時間を要したり、または戻れずに結局そのままになってしまうことになるのである。そうならないためにも、ただ恐れたり、どこからか入ってきた情報に踊らされていたり、やらなければならないことを今できないと先延ばしにして、過ぎてしまったりということによって起こってくるさまざまな問題を防いでいかなければならない。
話が少し飛躍するが、日常生活のほんの5分10分で終わることを先延ばしにしていても何の足しにもならない。誰かに何かを頼まれたとき、意外と、「え、なんで私が」とか思ってしまって、そのお願いを受容せずに終わってしまう時がある。しかしやってみると5分もかからないで済んでしまうことも多い。だからこそ、「ああこれは5分や10分で終わる」と考えてすぐ行動に移して、すっきりして次に行くほうがいい。「どうしようかな、でもな」と悩んでいる時間がもったいないのである。もちろん何でもかんでもただ聞いているようでは時に「自分で少し考えなさい」と言われるかもしれない。ただ、それでも答えが出ないようなら、聞いてみるのもいい。考えたうえでそれでもと相談するなら、きちんと聞くことができるようになる。それを繰り返す中で色々なことに対応していくことができるようになり、いたずらに恐れることを防いでいけるのである。このようなことは経験を積んでいく中でできるようになることだが、それ以上に神を信じるということによってその恐れを超えていく場面に出会うことが重要である。最終的には恐れた出来事が起こってきたときにも、それは神がお許しになったのだと信じ受入れることができるのである。もしかしたら子どもを失うということも起こってくる。ただ、それも神がご所望とされたのだと信じるしかない。私たちは最後そこに行きつく。そうでなければ、それこそ家庭が崩壊して、どうしようもないところまで行ってしまうのである。私たちはそのようなことが起こらないようにと祈る。ただ、それで起こらないかというと、そうではない。先日のニュースに2歳の子どもが行方不明になり、遺体で見つかったことが伝えられていたが、本当に恐れていてもそのようなことは起こる。その意味で十分なリスク管理は必要であるが、それでも恐れ続けていたらきりがない。これからあなたの子どもたちも大きくなって色々なことが分かるようになってくるとあなたの信仰に対してリアクションも強く起こしてくる。あなたが、恐れへの対処をせずにいるとそれも子どもは見抜いていく。「信仰って言ってもお母さん適当にやってるね」とまでは言わないかもしれないが、子どもたちの中に信仰者に対する不信感の芽を抱かせることにもなる。そして子どもはそのような母親の恐れや甘さを逆手にとって自分の欲求を満たそうとすることも起こる。「いやうちの子に限ってそんなことは」と思うかもしれないが、それぐらい子どもたちは賢い。ただその賢さを否定する必要はもちろんない。その賢さは喜んだ方がいい。その賢さを活かして神を恐れるように育てていくとよい。それによってその賢さは神とともに歩む中で大いに用いられていくようになるからである。 先日礼拝後午後の集会までの間、私たちの家庭で四歳の子を預かった。お父さんが仕事でお休みしており、お母さんも下の子の世話で手を離せずにいたために私たちの食卓で彼女は自分のお弁当を広げてお行儀よく食べていた。彼女は文句を言うこともなく「なんでお母さんは一緒にいないの」ということもなく、お母さんに言われてちゃんと自分がすべきことを理解して「私は今日のお昼、教会で先生たちと食べるんだ」と使命感を持ってその責任を果たしていた。4歳でもそのことが分かっている。私も昔学校の運動会などの行事が日曜日に入ると両親は教会の御用だから来れなくてお弁当を一人で食べるということがあった。みんな家族が来て一緒に食べている中、私だけ両親がいないという状況だった。もちろん友達の家族が声をかけてくれて一緒に食べるということはあったが、それは逆になんとなく自分だけが違うという疎外感の中でその時間を過ごしているという感覚だった。ただ、それでもそれに対して私はこれが自分の使命なのだという思いでやっていた。父と母は神に仕えていて、私もそれを邪魔しないで自分の役目を果たしてるという思いだった。だからその4歳の子も「お父さんが仕事でいないから私は先生たちと食べるんだ」と取り組んでいる。それが訓練なのである。ただ、このような話をすると、子どもがかわいそうという人もいる。そういうのももちろんないわけではない。かわいそうという部分があるなら、どこかで親がその分を取り返してあげればいい。違う時、思う存分その子とかかわって遊んであげればいい。そうやって取り返してあげる部分と、一方で、「あなたにはお母さんに対して従順でいてもらわなければならない」「家族の一員としてその責任を果たしてもらわなければならない」という使命があるのだ。親が4歳の娘に理由をきちんと話して、その部分を頑張らせることは決して悪いことではない。その意味で教会は背伸びをさせられる場所である。年齢以上を求められることもある。ただ、その中で訓練するからこそ大きく成長することができる。昔はよく厳しさはお金を出しても買いなさいというようなことが言われていたが、本当にその通りである。今中学二年生の子が20代の女性コーラスグループに混ざってセンターで賛美している。周りからのプレッシャーを浴びながら、伝道師の先生に注意を受けて泣きそうになりながらも彼女は立ち続けている。それは彼女が自らの賜物をもって神の召しに応えようとするためである。自分にはできないと逃げてしまうことは簡単だが、彼女も使命に生きようとしている。そこに生まれる賛美に私は感謝と感動を覚える。そこに本当の神の姿が証されるのだ。その道を超えてきた者たちはみな当時のつらさを語るとともに、だからこそ成長し、得られたものを証しする。その中でしか得られない多くの感謝を数え、その困難を共に歩んでくださった神を覚え、それによって燃える信仰を抱き、歩んでいけるのである。あなたも愛する子をそのように育てたいと思うならば、愛をもって厳しくするところを設けていかなければならないのである。
学ばせていただいたことを用いてなおまたこのひと月、信仰者として歩まさせていただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)