同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 世に関する神のご計画について (3) —

「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(創世記 6:5)

2.全的堕落に関して
  全的に堕落したものがどのようにして救われるのか。

・人間の堕落
-人間の堕落は、アダムがサタンに誘惑されて、神の命令に背いたことが原因であることを、すべての派が認めています。
- 堕落の結果、神のかたちに似せられて創造され、持っていた「義」を失いました。
そして、霊的に死んだものとなりました。まだ「霊魂と肉体のすべての機能が全的に汚れたものとなりました。」
さらにそれはアダム本人だけでなく、アダムから生まれた子孫は同じ「死と腐敗した性質を伝えられました。」
その「根源的腐敗から、すべての現実の違反(罪)が生じます。」
(「 」内はウェストミンスター信仰告白の引用)

 このアダムが堕落した結果、持つことになった「堕落したかたち」が「原罪」、「罪の性質」とよばれるもので、それが、人間が罪を実行する原因です。
 罪の性質を持っていることと、罪の行為を実行することは、別のものとして分けて考えなければなりません。

 極端なカルヴィン派の主張は、この堕落について、説明困難に陥ります。
「わたしたちの始祖は、サタンの悪巧みと誘惑にそそのかされ、禁断の木の実を食べて罪を犯した(1)。神は、彼らのこの罪を、ご自身の賢いきよい計画によって、ご自身の栄光に役立てる目的をもって、許容することをよしとされた(2)。」(ウェストミンスター信仰告白、第6章 1項)
もしアダムが、神が聖定されたのではない、誘惑に陥ったのであれば、この世の進行は<不変に>聖定されたのではないことが起きていることになります。もし聖定されたとおりに誘惑に陥ったのであれば「神は罪の作者」になります。

 カルヴィン派の人々は、極端なカルヴィン派の主張を越えて、「1.聖定と自由意志に関して」のところで述べた、パーマの「二律背反を受け入れるとした、「聖定」と「自由」の両方を受け入れることになるでしょうが、現実は、一般の信徒の皆さんにはこのことがあまり周知されていないようです。

 アルミニウス派は、「神は天使と人間を全く自由なものに創造された。サタンはこの世を神から任された天使であったが、神に背いて悪の存在になった。人間はそのサタンに誘惑されて、与えられていた自由を神の命令に背くことに用い、堕落した。」とします。
カルヴィン派の人々の中には、アルミニウス派は<全的に>堕落したことを認めていないと誤解する人々がいるようですが、アルミウス派も人が<全的に>堕落したものであると信じています。

 つまり人間が「全的に堕落」したものであることはどこの派の人も認めています。
 先にも述べているように、救いに与っていない世のひとびとの持っている自由もまたどの派の人々も認めています。

 ルーテル派ではこう教えます。
「われらの諸教会は、また、かく教える。アダムの堕罪以来、自然によって生まれる人は、ことごとく、罪をもって生まれる。すなわち神をおそれず、神への信頼なく、肉慾をもっている。そして、この疾病すなわち原初の過誤は、まことに、罪であって、洗礼と聖霊とによって再生しないものの上に、今でも罰をあたえ永遠の死をもたらすのである。」(アウグスブルク信仰告白:第二条)
「自由意志について、われらの諸教会は、かく教える。人間の意志は、公民的の正義を行い、理性が把握するような事柄を選ぶいくらかの自由を有する。しかし聖霊なくしては、神の義、すなわち霊的正義を行う力をもたない。なぜなら生まれつきのままの人は神の御霊のことを理解しないからである(1コリント2:14)。しかし、み言によって聖霊を受ける時、このことが、心の中で行われる。」(アウグスブルク信仰告白:第十八条)

・全的堕落に陥った人間の救い
 アウグスブルク信仰告白、第十八条にある「公民的正義と理性が把握するある程度の自由はあるが、神の義、霊的正義を行う力を持たない。」が「聖霊を受けるとき。このことが心のなかで行われる。」ということは、カルヴィン派もアルミニウス派も信じています。  もう一つの問題は、救われる以前の神から離れている人が、覚醒され、認罪をもち、キリストの救いを理解し、キリストを信じて救われるに至る点です。
 義とされることはイエス・キリストの贖いによるのですが、善なるものに心が向かわない全的に堕落した人がどのようにしてそこに行き着くのかが問題点です。

 極端なカルヴィン派は、
 人間は神の世界については「死体」であって、神が救い、命をお与えになるまで、人はなにもできない。ですから、次のテーマである「無条件の選び」が全的堕落に陥った人の救いの道であって、救いに予定された人を神が「一方的な恵みによって」救うとします。カルヴィン派のひとびとは「行いではありません。信仰によって救われるのです。」と強調します。勿論すべての派の人々がそう信じています。しかし、「神が一方的恵みによって救う」とすると、「信仰によって救われる」のではなく、「神が救われる」と「信じる」ことになります。

 ウェストミンスター信仰告白では、「第10章 有効召命について」の中に、その考え方が述べられています。
 「第11章 義認について」に述べられていることも含め、 神が<命に予定した人々だけに>、
・自分が滅びの状態にあることを知り、
・イエス・キリストに救いがあること
 を知り、
・救われたいと思い、
・イエス・キリストのもとに行って悔い改め、
・イエス・キリストの贖いを信じる
に至る恵みをお与えになるとしています。

 聖霊が聖書のことばとともに働かれて、これをなさるとしていますから、全的に堕落した人間も聖霊が働かれると救いにいたることができると信じていることになります。つまり全的堕落をした人間が救いに至る過程があるのです。
 極端なカルヴィン派では、命に予定されているひとに限定して、このことが起こるとします。

 アルミニウス派、ルーテル派では全てのひとが、イエス・キリストの救いに招かれており、信じたひとが選ばれ、救われるとします。
 そして、神が世のはじめから定められたのは、イエス・キリストを救いのために遣わされることとと、彼を信じた人を救うということです。その救いに至る過程は、先に救われた人が証しし、みことばを宣べ伝え、それと共に聖霊が働かれて、覚醒させ、認罪をもたせ、イエスを信じさせて救いに至らせるとします。

 カルヴィン派は、「聖定によって命に予定されているひとが救われること」と、「イエスを信じる全てのひとが救われること」との両方を信じることになります。
もし聖定だけを信じるなら「どうせ全部決まっている」という論理にいきついてしまいます。聖定だけを信じながら、私は礼拝し、祈るから極端なカルヴィ派ではないと主張したら、最初に例にあげた、信じている教理と実際に生きている教理が違う人になります。
もしも人間の祈りに応えて神が世の進行を変えなさるなら、<不変の>聖定は成り立ちませんし、自由なつもりでも神が定めた通りのことを祈り、行動しているのであれば、人間は神の定めたプログラム通りに動くロボットに過ぎないというところに戻っていってしまいます。

神が人間の祈りに応えて下さることはイエス・キリストによって繰り返し強調されています。
隣人を救うことは、祈りのもっとも大切なテーマです。聖霊は全的に堕落した人間を祈りに応えて救いに導かれます。