同労者

キリスト教—信徒の志す—

回心物語

— A.J.ゴードン -<神に導かれた人> —


<本コラムは「野の声|木田惠嗣のホームページ:40人の美しい回心物語:
("40 FASCINATING Conversion STORIES" compiled by SAMUEL FISK (Kregel Publications)の中から、適宜選んで、毎週の週報に連載翻訳したものです。)から許可をえて転載。

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     マサチューセッツ州ボストンにあるゴードン神学校と宣教大学(現在は、ゴードン・カレッジ及び、ゴードン・コンウェル神学校となっている)は、非常に敬虔なアドニラム・ジャドソン・ゴードンによって設立された。最初、彼は、それをボストン宣教師訓練学校と呼んだ。その名前は、ゴードンが、更に遠く更に広くと提唱していた海外宣教への強烈な関心を示している。彼はまた、預言にも興味を持っており、主の個人的・可視的再臨を強く主張していた。彼は、これらの主題について、また、その他、鋭い聖書研究、クリスチャン生活に関する書物を書いた。シャフ-ハーツォグ百科事典は、彼が編集した二冊の賛美歌集に加えて、彼が出版した10冊の本を列記している。彼はまた、D.L.ムーディの協力者でもあった。

     A.J.ゴードンは、大胆にも、「我々は福音を説くか、化石になるかである」と宣言した。
    この言葉を最初に考案したのではないにしても、一番最初に大衆化したのは、彼である。
    また、「この時代最大の致命的な誤りの一つは、福音の奉仕者が、人々をとる漁師となる代わりに、人々を養う者になっていることである。」(ヘンリー・ピッカリング著「一千の行動と事実」より)

     ゴードンが、キリストを彼の生涯に迎え入れた実際の物語は、彼の息子であるアーネスト・B・ゴードン著「アドニラム・ジャドソン・ゴードン伝」に拠っている。

     ゴードンの場合がそうであるように、一般に、神を敬う両親によって土台が据えられると、その子供たちは、多くの場合キリストのもとへやってくることになる。ゴードン自身の父親については、「ほとんどの人が、その敬虔で忠実なふるまいを忘れ去っていなかった。その家族の朝の祈りは、村人が絶えず行き交う十字路に近いところにある古い農場の角部屋で行われた。ゴードン執事の祈りの思いでは、・・・今なお、年老いた人々の心に残っている。公正さと、博愛と、御国の前進のための献身的な努力とは、あたり一帯の評判であった。力と優しさが、ここで解け合った・・・。」と書いてある。

     さて、彼の母については、「12人の子供たちへの記録されていない犠牲については、自分が利己的でなかったことを忘れており、とても善良であるのに、風変わりなほどそれを意識しない・・・スザンナ・ウェスレーのような女性であった。彼女の家族は、彼女の教区であった;彼らに対して彼女は奉仕し、彼らの為に祈ることを、最後までやめなかった。」と書いてある。

     A・J・ゴードンの実際の回心について、彼の息子は、「彼は幼年期を、静かな村で、そしてひときわ敬虔な家庭中で、健全で高邁な精神を育まずにはおかない環境の中で過ごした。この少年が15歳になったとき、彼の内的生活に大きな変化がやってきた。ここまで、無思慮で、どちらかというと無関心で、感受性の鈍い少年であったが、このころには、新しいことに熱心な少年となった。新しい真剣さは、彼を目覚めさせた;新しい思慮深さは、彼の注意をより大きな人生へと向けさせた。霊的生活への関心が次第に大きくなり、彼の心を奪うようになった。

     「最初にやってきた葛藤は、ペニエルでのように、明け方まで格闘した。罪の自覚は猛烈で、耐えられないほどだった。堕落した人間の心に気が付き、完全な神のお姿を見、高く引き上げられた─これらのことが、資格のない無価値な者、全く無力なものを救うという結論以外のどんな結論に導くであろうか?魂の戦いは、暗くなり激化した。ついに、そのような魂の苦しみの中、夜は明け、父は、夜明けまで、彼と共に座した。悲しみは夜中の間続いたが、朝には喜びが訪れた。翌日の丘にあふれる朝日のような静けさが、我らの主イエス・キリストによる神との平和を見出した少年の心にはあった。」

     「六月の素晴らしい安息日に、彼は、二人の姉と共に、良い告白をし、彼女たちと共に古い水車場の小川に下り、神秘的な死に合わせられる姿が目撃された。彼の回心は、あらゆる方面に、新しい刺激を与えた。読書は大嫌いで、勉強することはほとんど、懲罰に近いことであった。そんな彼が、今や、その不快な仕事に戻ってきたとは、いかなる熱意によってであろうか!彼が、今、心の中に、宝として蓄えている予想や、希望は、彼らが、作り出したものではなかったからでしょうか?この希望と目標は、彼自身の内に長くとどめておくことはできなかった。彼が16歳になってまもなく、彼は、教会において、牧師になりたいという決心を告白した・・・ひとりの物怖じし、不器用な少年が、輝く顔で、口ごもり、難儀しながら、その救い主の働きのために、自分の生涯と、最高の力をささげることを発表した。」

     A・T・ピアソンは、「彼の回心は、彼の救い主であり、主であるお方、キリストに帰ることであった。彼は、神がその一人子をお与えになり、その方の中に永遠のいのちがあるというメッセージを信じた。試みる代わりに、彼は、信仰の完成者であるイエスを信じ、仰いで、平和を見出した。」と書いた。

       主のための偉大な生涯の始まりに必用であったのは、それがすべてでした。

     ピアソンは更に、「彼は、あらゆる意味で偉大な人でした;その精神において、その才能において、行政的な手腕があるばかりでなく、創造力に富んでいた;また、組織作りに長けていたばかりか、発案力もあった。彼の多才さは、驚くほどであった。」そして、ゴードンの偉大なボストン教会について、「彼は、ユニテリアン主義と自由主義の蔓延する環境の中で、信仰じる兄弟たちの集まる、世界中のどこよりも簡素な礼拝と純粋な教理、根本的な実践によって特徴づけられる教会を設立することを許された。」

     しかし、すぐに、ピアソンはこう付け加える。「ゴードン博士が、講壇の名説教者としての誇りや、彼に与えら得られていた賜物のように見えた聖書学者としてのプライドを捨て、誤解されても、誤って伝えられても、あざけられても、ひたすら、聖霊に満たされた人となることを求め、内なる静かなささやきに忠実であろうとすることなしに、これを成し遂げることが出来たと考えてはいけない。・・・彼の生涯は、古典的宗教書となっている著作物の著者としての働きを除外しては語ることが出来ない。」

     20年以上、イランへの宣教師であったJ・クリスティ・ウィルソン博士は、「ドワイト・L・ムーディは、A・J・ゴードンが学生達に影響を与え、マサチューセッツ州のマウント・ヘルモンで開かれた学生協議会の主講師として招かれ奉仕したことが、有名になったきっかけであった・・・学生達は、そこで聞いたメッセージに非常に感動し、協議会の最後には、99人が、海外宣教師となる意思を表明するサインをした。」更に、「彼の教会は、海外宣教に大変熱心な会衆となった・・・彼の死に際して、彼の妻は、花を手向けるのではなく、海外宣教のために、献金をしてほしいと頼んだ。ゴードンを愛していたひとりの中国人のクリーニング屋は、三枚の一ドル紙幣を彼の棺の上にのせた。これは、彼の葬儀において、ささげられた莫大な宣教献金の一部となった・・・こうして、彼の影響は、世界中に広がった。」