同労者

キリスト教—信徒の志す—

回心物語

— パンディタ・ラマバイ-<キリストを見出した身分の高いインテリ> —


<本コラムは「野の声|木田惠嗣のホームページ:40人の美しい回心物語:
("40 FASCINATING Conversion STORIES" compiled by SAMUEL FISK (Kregel Publications)の中から、適宜選んで、毎週の週報に連載翻訳したものです。)から許可をえて転載。

  • こちら
  • にアクセスすると元の文を読むことができます。>


     聖書学校において、海外宣教が強調されたとき、私たちは、価値ある海外宣教計画と目されているものがあることを知った。人々が、そのように認めているもののひとつとして、インドの、パンディタ・ラマバイによって設立されたラマバイ・ムクティ・ミッションが知られている。

     数年前、家族の会話の中で、私は、実に驚くべき働きを確立したこの注目すべき女性の名前を口にした。私の母は、1899年に、カリフォルニア大学を卒業したのだが、彼女は、その大学生時代のはじめに、パンディタ・ラマバイが語るのを聞いたと熱く語った。このことが、私に、さらに彼女に興味を抱かせた──どんないきさつから、アメリカの大学で語る機会が与えられたのだろうか?さらに、どのようにして、クリスチャンになったのだろうか?と

     多くの人々が知っているように、普通、遠く離れた国でクリスチャンになった人が、母国の必要に関心を持ってもらうために、欧米にやって来るというのが一般的です。しかし、パンディタ・ラマバイの場合、明らかに逆です。パンディタは、明らかに生まれながらに、強固で優れた人格を与えられていた。──優れた人格が、彼女をして、幅広い関心に導かれて行くところどこにおいても、受け入れられる存在にしていた。これらの関心が、彼女を西欧に導き、キリストに関するしっかりとした知識に導く遙か以前に、非常に簡潔に述べられた興味深い物語がある。

     ロバート・ホール・グローバー博士は、“Progress of World-Wide Missions”の中で、「すべての人々の中で、最も良く知られ、尊敬されている人物は、パンディタ・ラマバイである。インド国内、国外を問わず、最も優れたインドの女性として、世界中に知られている。彼女の知識と彼女の知的能力は、非常に優れているので、インド女性として授けられる最高の学位が授与された。彼女は、偶像を捨て、クリスチャンとなり、愛と献身をもって、子ども妻や子ども寡婦をその束縛から解放するために自らをささげた。後年になって、彼女の働きは、最初彼女が意図した枠を超えて拡大した。彼女が、絶望的な状況に身を投じたとき、何千もの少女や女性たちが、死や貧困や、ならず者たちの下劣なたくらみから救出された・・・。

     「彼女の経営する学校や、孤児院、更生ホームでは、いくつかの聖霊のすばらしい働きが証され、非常に大勢の人が回心した。彼女の伝記を書いた著者の一人は次のように書いている。30年以上の感嘆すべき働きを終え、1922年4月5日、この偉大な‘学者であり、聖徒であるしもべ’は、キリストにあって眠った。彼女の死は、世界中の宗教的な新聞にも非宗教的新聞にも注目された。あらゆる民族の彼女の友人達がその死を嘆いた。多くの人々が、彼女の直接的奉仕によって感動し、変えられ、また、彼女の高貴な模範によって、多くの人々が触発された。」

     「世界宣教外観」の著者であるジョン・C・シーセンは彼女の背景に関して、さらに次のような事実を述べている。「インドのバラモン階級に生まれたこの賜物のある女性には、インドの一般の習慣に反して、妻や娘たちに読むことを教えた父がいた。両親とも、1876~77年の飢饉の際に、餓死した。残された彼女は、ベンガル人の法律家と22歳の時に結婚した。19ヶ月後、彼は、コレラで死に、彼女と幼い一人娘とが残された。魂の平安を得ようと切望しながら、ラマバイは長く辛い巡礼の年月を辿りはじめた。」

     J・ハーバート・ケインは、「力ある信仰‘Faith Mighty Faith’」の中で、彼女の回心までの道のりに関して、次のように記している。「幼い子どもの頃から、ラマバイとその弟とは、バラモンの祭司であった父と共に、インドにある有名なヒンズー教の寺院に長く辛い巡礼の旅をした。毎年、毎年、彼らは、インド中を巡って、聖なる場所を訪ね、聖なる山に登り、聖なる川で沐浴をした。それはみな平安を求めてのことであった。父親の死後、ラマバイと弟とは、なお、平安を求めて、4千マイルも、人々が喜んで施してくれるものだけを食べて歩き続けた。ある時は、四日間、何も食べずに進んだ。ヒマラヤの寒い夜を過ごす間、ラマバイは、弟のために、浅い穴を掘って、砂と毛布を使わせた。ついで、もう一つの穴を自分自身のために掘り、出来るだけ凍えないように、砂をかけて、その穴の中に潜り込んだものであった。新しい寺院に近づくたびに、彼女は、『ここで、平安を見出すことが出来るだろう』と思ったが、平安は得られなかった。」

     「ある日、神の摂理の導きにより、彼女は、カルカッタへ行った。そこで、彼女は、あるプロテスタントのクリスチャンであるインド人たちに会い、集会に連れられて行った。それは、ラマバイにとって、すべてが非常に奇妙な経験だったが、逃げ出すことが出来なかった。一冊の本を読んだ後、人々は椅子の前にひざまずき、椅子に向かってつぶやきはじめた。彼女は、彼らはきっと祈っているのだと思ったが、何の姿も偶像も見ることができず、一体これは何だろうと不思議に思った。しかし、彼女は、彼らが礼拝している神々によって、明らかな平和と喜びを持っているように見えることに感銘を受けた。これが、ラマバイが、最初にキリスト教に出会った時のことです。」

     「ラマバイが、その本が聖書であることを知るまでに長くはかからなかった。その集会の司会をしていた二人のりっぱな男性が、その言葉を彼女の母国語に通訳してくれた。教育を受けた女性であったラマバイは、その言葉が既に彼女の心を捕らえていた聖書に、非常に興味を持った。彼女が頼み込んでもらった聖書の複製を、彼女は生涯大切にした。」

     さて、我々は、パンディタ・ラマバイの伝記を書いたヘレン・S・ダイヤーの言葉によって、話を続けよう。「彼女の弟が死んで以来、特に、彼女の夫が死んでからは尚更、ラマバイは、神が彼女を導いておられるという漠然とした感覚を持った。ヒンズー教の迷信に、少女時代からひどく幻滅してきたにもかかわらず、彼女は、尚、ヒンズー教の視点から働いてきた。彼女は、キリスト教を知ったとはいえ、その知識はわずかで、クリスチャンになろうという考えはなかった。彼女の心には、次第に神が与えた不安が生じた;そして、機会が提供され、彼女の言葉によれば、ちょうど、アブラハムのように、行き先を知らずに、イギリスへ出発しようとしている自分自身に気づいた。」

     「まだ赤ん坊の娘と共に、イギリスに到着すると、ラマバイは、ウォンテジにある英国の姉妹教会に親切に迎えられ、そこで、学ぶ機会が提供され、ラマバイはクリスチャンとしての告白をし、彼女の幼い娘と共にバプテスマを受けた。・・・」

       「その時、ラマバイが気づいたヒンズー教の教典の良い教えと、イエスキリストの福音との違いを、彼女は次のように表現した:『古代ヒンズーの教典は、愛すべき美しい教訓を私たちに教えるのに対して、キリストの新しいディスペンセーションは、私たちに、それらの原則を行動に移すことの出来るめぐみを私たちに与える。ヒンズー教の教えは、機関車に積まれた蒸気エンジンのようなもので、美しく、大きな可能性を持っている;キリストとその福音とは、蒸気である。エンジンを動かし得る原動力なのです。』」