同労者

キリスト教—信徒の志す—

回心物語

— M.R.デ・ハーン -<ラジオ聖書講座の創設者> —


<本コラムは「野の声|木田惠嗣のホームページ:40人の美しい回心物語:
("40 FASCINATING Conversion STORIES" compiled by SAMUEL FISK (Kregel Publications)の中から、適宜選んで、毎週の週報に連載翻訳したものです。)から許可をえて転載。

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    長い間、私の本棚には、尊敬すべき聖書教師、M.R.デ・ハーン博士の数冊の著書が並べられて来た。これらは、彼が書いた25巻のうちの数冊に過ぎない(彼のラジオメッセージを印刷した数百の小冊子は数に入れてはいない)。確かに、彼はその著書によってではなく、たくさんの人が聞いたラジオ聖書講座によって有名です。
     それで、デ・ハーン博士が、ご自分の活動拠点からは、遠く離れた私達の地方にこられて講演をされることがわかると、彼の死ぬ直前ではあったが、私たちは、個人的に彼の講演を聴きに出かけたというのも、不思議ではない。彼のがらがら声も、虚飾を好まないメッセージもいつもの通りでありながら、暖かい、やさしい人格がずっと輝き出ていた。彼の死の三年前、デ・ハーン博士は、二ヶ月に渡って、8,000マイル以上の旅行をして、講演をしていたといわれている。
     デ・ハーン博士は、福音の奉仕者となる前から、「博士」と呼ばれるにふさわしかった。彼は、医学部を卒業し、有能な医師としての地位を確立していた。彼は、学生時代、クラスで最年少であったが、イリノイ大学医学部を総代で卒業した。30歳のときに、福音の奉仕者になれという神の召命に答えて、赤ん坊の誕生を主宰する者から、新生を説教する者へと転向した。医師としての経験の中には、田舎の農家で、台所のテーブルの上に寝かせた盲腸の患者を、ケロシン・ランプの光を頼りに、手術をしたこともあった。
     しかし、第二の仕事につくということは、彼自身、神学校に入って準備をするという、新たに教育を受けなおすことを意味していた。そして、その後、彼は、ミシガン州の二つの教会を牧会した。
     彼の第三の職業とみなされて来たものは、彼の著述活動と共に、彼が設立したラジオ聖書講座で、彼はその司会を27年にわたってした。彼のラジオ放送は、瞬く間に、相互ネットワークを越えて、全米をカバーし、オーストラリアのような遠いところでも聞かれるようになった。
     彼の書いた本について、レーマン・シュトラウス博士が韓国からよこした報告によると、かの地の地方の牧師が、「私は、神学校に行くことはできなかった。しかし、デ・ハーン博士の著作物や説教を翻訳した本から神学教育を受けた」と言ったとのことである。また、しばしば、病気がちであったにもかかわらず、デ・ハーン博士は、ムーディ・インスティテュートの設立者会議のような、全米の聖書会議に奉仕をした。
     彼の回心の物語を、ジェームズ・R・アデイアー著「M・R・デ・ハーン―その人となりと奉仕」(1969年ゾンダーバン出版社)から引用しよう:
     「少なくとも、マーティンにとって、特別な方法で、神の手が彼に触れたように感じた日がやってきた。ゆっくりした蹄の音と、キーキーという荷馬車の車輪の音とともに、西部から、背の高い婦人伝道者が町へやって来ると、大通りは、若いオランダ人の群でいっぱいになった。その中にマーティンもいた。オランダにある都市宣教団からミシガン州に派遣されてきたその婦人は、イエス・キリストを見出していない人々に、来るべきさばきを語り、いかにして神の怒りから逃れるかをはっきりと宣言した:
     「救いは全て神の恵みです。あなたはそれを、バプテスマによっても、教理問答によっても、教会員になることによっても得ることは出来ません。また、あなたの両親から、それを相続することもできません。あなたの罪を告白しなさい。そしてキリストによって、神の家族の一員として新しく生まれなさい!・・・。」
     「彼女は、聴衆の何人かの心に、真理が深く留まる事を望んで、長い人差し指を揺すった。マーティンが町の最も悪い罪人として選び出されたように感じたのは、およそ12歳の時だった。その日、彼は、他の少年たちと一緒に、ひやかしたりしなかったし、そのメッセージが彼に語られたことを他の人に語ることもしなかった。しかし、その荷馬車が、オランダに帰って行った時、ネリーの夫が王位についていたのだが、彼は、重い足取りで、家に向かってあるいていた。まじめで、重要な思考が、少年の心を責め立てていた。その日の午後、12歳のマーティンは、生まれて初めて、神に祈った。彼は、信仰によって、救われ、ネリーが語ったようなクリスチャンになりたいと願った。
     「彼は、見たところ、事の詳細を、両親や友人と語り合ったり、牧師に軽率に話したりはしなかった。彼の感じたこの事は、彼と神との間の個人的なことであった。その上、彼は、自分が救われたなどと語ることは、生意気なことであると思っていた。当時、教会に行く善良なオランダ人の多くは、救われると思っているが、誰もそれを確かに知ることはできないと思っていた。この時のマーティンの霊的体験が本物であったかどうかはよくわからない;彼の生活に、明らかな変化はやってこなかった。後になって、彼はしばしばこの出来事を引用しているのだが・・・
     「死に直面して、彼らの過去の行いが、走馬燈のようによみがえってくる人々がいることはよく知られている。1921年10月、グランド・ラッピズ病院において、生きるためにもがいたとき、30歳のマーティン・デ・ハーン医学博士の心に何が生じたかについ記した物は残ってはいないが、彼が、確かに、自分自身の過去と未来について考えたことが知られている。」
     「彼は、30年の間ずっと、教会に所属してきた。少年の頃、彼は、定期的に出席していた;医学部で学んでいたときでさえ、彼は、忠実に教会に出席していた。バイロン・センターにおいても、彼とプリシラは、改革派教会に所属し、出席できるときは、出席してきた。しかし、それは、すべきことであって、神にとって、彼の人生は意味あるものではなかった。彼の人生には、神の指さす罪があった。12歳の少年の時、神の前に、自分の人生を精算していたであろうけれども、彼は、咎めを感じた。」
     「バイロン・センターからやって来た患者の心と生涯に、静かな取引が行われた時、彼の病室の戸口の外を、看護婦たちは、静かに通り過ぎた。彼と神との会話の記録はここでもない。彼は、決して、その体験を語ったり、語り直したりしなかった。しかし、次のようなことを書いている:『私は、肉においては、1891年に‘ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子’として生まれた。30年の罪の生活の後、1921年の10月に、私は、霊において、新しく生まれた。そのときから、私の唯一の希望と目的は、永遠から永遠まで、すべての栄光が帰されるべきお方を、ほめたたえることです。エペソ1:7』」
     「その出来事のすぐ後に、病院を訪問して、彼の霊的体験を知ったデ・ハーン夫人は、彼が後にその出来事を語ったとき、彼が、12歳の時には、本当に神に出会ってはいなかったのだと言うことに言及したのだと思い出した。その病院での経験は、霊的な戦いであった。『寿命を延ばして下さい。そうすれば、私はあなたに仕えます』と、デ・ハーン博士は神に嘆願した。彼は、心を込めて、本気でそういった。なぜなら、数日後、家に帰るとすぐに、業務を再開したが、神は、彼を支配された・・・」
     「近所の人々は、違いに気づきました。デ・ハーン家は、蓄音機を所有する数少ない家庭の一つであった、バイロン・センターに長く居住している人によると、『窓が開いているときは、‘私の心にイエスが入ってこられてから’といった賛美歌が聞こえてきた。』と言う。」
     「農場の農夫たちも、遊んでいる子供たちも、また、彼の飼っている馬たちさえ、先生に何が起こったかと不思議がったに違いない。というのも、デ・ハーン夫人は時々、彼の往診のお供をし、新婚旅行を楽しむ0夫婦のように信仰の歌をいっしょに歌いながら馬車を走らせた。「彼は、歌い出すほどの喜びを心に持っていた。」と、デ・ハーン夫人は回想する。罪赦されたことを知ったことが、博士の喜びが爆発した唯一の理由ではない。確かに、それも十分な理由ではある。しかし、30歳になった時に、神に仕えようと考えたことが、彼に、大いなる喜びをもたらした。マーティンがこのニュースをその母に語ったとき、母は、涙を流して喜んだ。神は、息子の強情さについて祈った彼女の祈りに答えて下さった。デ・ハーンは、彼に起こったことの多くを彼の母に帰した。「私は、敬虔で祈り深い母によって祝福された。彼女の訓戒は、私から離れたことがない。私は目をつぶると、今なお、ベッドの傍らにひざまずいて青いチェックのエプロンで涙を拭いながら祈る彼女の姿を思い浮かべる事ができる。私は、不断に聞き続けてきたすべての説教よりも、 母の祈りに、より多くの影響を受けた。」
    「M・R・デ・ハーン─その人となりと奉仕」ジェームズ・R・エイダー著(1969年ゾンダーバン・パブリッシング・ハウス刊)から引用。