同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— ペンテコステと聖潔 —

「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。・・・。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイ 3:11)
「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」」(使徒 1:4)
「五旬節の日になって、・・・みなが聖霊に満たされ、・・」(使徒 2:1-4)

 私たちが受ける恵みのすべてはイエス・キリストの十字架の死と復活によりますが、まず救いの恵みすなわち「義認と新生」に与ります。
ペンテコステのとき聖霊が降られたことが私たちに何をもたらしたのかといいますと、それは「聖潔」であって、「聖化」、「潔め」、「キリスト者の完全」など、いろいろな呼び方がありますが同一の内容をいいます。それをもとの「ペンテコステ」や「聖霊のバプテスマ」と呼ぶこともあります。
 この「聖潔」を明らかにし、世に広めたのはジョン・ウェスレイ(1703年生まれ)であって、彼はこれを「キリスト者の完全」と呼びました。今回は、ウェスレイがこの恵みを知るにいたった経過とその要点を探ってみたいと思います。
 ウェスレイは自分が「キリスト者の完全」を信じるに至った経過を、時系列にしたがってありのままに著書「キリスト者の完全」に記しましたから、日記などと照らし合わせて読むと、その経過と共に「聖潔」とはどのようなことであるのか分かります。

<ホーリークラブ>
 オックスフォード大学で弟のチャールズが始めたホーリークラブ(メソジストとあだ名され、それがメソジスト派の名となった)に加入、指導的立場になりました。

<全き献身の決意>
1725年、23歳、テイラー著「神聖な生と死に関する宗規と実践」を読んで、自分の人生の全てを捧げることを決意。
1726年、ケンピスの「キリスト者の模範」を読んで、自分の心、心情のすべてを捧げることを決意。
1727~1728頃、ロウの「キリスト者の完全」と「厳粛な召命」を読んで献身の決意を固くし、半分だけキリスト者はあり得ないことを確信。
 全き献身の決意は、「決意」にとどまり「救い」も「潔め」も与えられませんでした。

<アメリカ宣教>
1735年~1738年、
行きの船で、モラビア宣教団の人々に会い感銘を受けました。

<救いの経験>
1738年、
モラビア派の集会で、救いを経験。ルターの「ローマ人へ手紙序文」が読まれていることを聞いていて、「こころが妖しく燃え」、キリストのみを信じ、自分の罪が取り去られたと信じました。

<「メソジスト信徒の品性」を発表>
1739年、これは自分が信じている「キリスト者の完全」とはどういうものかを書き表したもので、「品性の完全」であると思っていたことが分かります。

<「キリスト者の完全」の説教を出版>
1740年、
この中で、自分の伝えている「キリスト者の完全」は、
(1)どのような意味でキリスト者は完全でなく、
(2)どのような意味で彼らは完全であるのか、
を明らかにしました。
そして、罪の源泉である「罪性」について取りあげています。罪性はキリストと共に死に、それに代わってキリストと共に生きるのであると。
強調点が「品性の完全」から「罪性のきよめ」に移りました。

<讃美歌集序文>
1742年、
完全な人とは、
「神がすべての汚れからきよめたひと」であって、
「キリストの歩まれたように歩むひと」
「キリストと共に死に、キリストと共に生きるひと」
「こころを尽くして神と隣人に仕えるひと」である、
としています。

<教職者たちの会合で、「潔め」あるいは「完全」とはどういうものか議論し、その内容を記録>
1744年
 これまでの事項に加えて、この恵みは「生きている時あたえられるもの」であって、「死んだ後のことではない」ことが確認されています。

<讃美歌と聖詞>
1749年
 このなかで、潔めは「瞬時に与えられるものである」ことが強調されています。

<キリスト者の完全に関する考察補遺>
1762年、
潔めに与った人々について検討し、恵みに与る順序が取りあげられています。その順序は「まず罪が取り去られ」「次に愛に満たされる」という順です。
まず「キリストと共に死に」ついで「聖霊にみたされ、キリストと共に生きる」のです。「聖霊に満たされて段々潔くなるのではない」ことが分かります。
そしてそれは瞬時に得られる経験であって、瞬時ではないひとはいませんでした。

 ジョン・ウェスレイがこの「瞬時」をペンテコステといつ気づいたのかは分かりません。しかし、弟のチャールズ・ウェスレイが先に経験し「兄さん、あなたのペンテコステはまだきていません。」と手紙に書いたことが知られていて、かなり早い時点でこの恵みの「瞬時」はペンテコステであると気づいていたものと思われます。

 ペンテコステこそ「罪性」に対する「潔め」が与えられた記念の日です。