同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 生ける水の川 —


「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ 7:37-39)
「割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。」(使徒 10:45)
「そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」(使徒 15:8-9)


 冒頭に掲げた最初のみことばは、イエス・キリストがこの世におられた時の言葉です。栄光を受けられるとは、十字架の死と復活と昇天を終えて父なる神の右に座し、栄光を受けられたことをさしています。そのときはまだ、ペンテコステの聖霊は注がれていませんでしたので、それが説明されています。
 2番目のみことばは、聖霊が信者に注がれ、それがユダヤ人以外の人々にも及んだことで、驚きをもってその事実が明らかにされました。
 3番目のみことばは、異邦人もキリストを信じる信仰者となり教会にうけいれるべきものであることを、聖霊が明らかにされ、聖霊を受けた人々のこころをきよくされたとされています。

 「生ける水」は最初、イエス・キリストのもとにいって飲みます。そして信じて自分が聖霊を受け、自分から生ける水が流れ出る人になるとイエスはいっておられます。生ける水が流れ出るのは聖霊が注がれることが条件ですから、聖霊から流れ出ると考えてよいでしょう。
 黙示録にある天国の、いのちの水の川はこのように記されています。
「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」(黙示 22:1-2)

 また、エゼキエルが見た神殿から流れ出る川もあります。
「彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。 ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。 彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。
彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。
この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。
漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。
・・・川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」(エゼキエル書 47:1-12)

いのちの水の川が私たち自身から流れ出るというすばらしいお約束で、ペンテコステの日に実現しました。

 一方で、警戒のことばも記されています。
「しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。」 (エゼキエル書 47:11)
 神のみ旨に従って行動しないと、流れ出るはずの水が流れないで腐り水となると理解されています。