同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 聖化と知識 —

「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には・・・知識を・・・加えなさい。」(ペテロⅡ 1:3-7)

 聖化はそれを受けたひとに聖いこころを与えますが、知識は与えません。
 聖化は人に何を与えるのかといいますと、まず神と神のことば(聖書)に対する信仰で、救いの恵みの時に遙に勝るものとなります。罪の根の破壊つまり神に不服従な自我の死です。次に曇りのない聖いこころです。失われていた神のかたちが回復されます。聖霊がこころのうちに住んでくださって、助け手となって下さいます。なんども繰り返していますが、聖霊は決して支配者となって直接ひとを動かすことはなさいません。聖化の恵みに与ってもひとは自分の意志で行動します。  困難のときにも神を信じて希望を持ち続けることができるものとなります。そして神とひとに対する愛が豊かにされます。

 大切なことは聖化の恵みに与っても、持っている知識は変わりません。聖化の後も知識は学んで獲得するものです。
 自分の過去を振り返ってみるとき、なんと恵みを受けるに足らないものであったと自覚するでしょう。そしてこのようなものを愛し、子と呼び続けて下さった神のご寛容を知るでしょう。それによって「神は寛容な方」という知識を得ます。  自分の歩んできた人生に、摂理の配剤をおかれて救いに与れるように導いて下さったことに気づきます。それによって「神は愛です」という知識を得ます。
 このようなことを「神経験」といいます。この知識は聖書や何かの文章を読んだり、話を聞いたりして得た知識・・頭で理解した知識以上のものです。
 他人、隣人について生活のなかで遭遇するできごとによって、このひとはこう考える、こういう受け取り方をする、こういう行動する、と知りますがそれも知識です。時にはこころの内が見えることもあります。イエス対するユダヤ人指導者たちのこころは「ねたみ」であったと、ピラトさえ気づいたのでした。パウロは行く先々でユダヤ人たちに嫉まれました。
 自分自身について、自分のこころを観察すると、自分自身についての知識が得られます。聖潔の生涯をおくりたいひとは、自分のこころをみつめて自分を知る必要があります。