ショートコラムねだ
— 聖化と喜び —
「イエスは、聖霊によって喜びにあふれて・・・」(ルカ 10:22)
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」(ヨハネ 15:11)
「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(ヨハネ 16:22)
「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」(使徒の働き 13:52)
「神の国は・・・、義と平和と聖霊による喜びだから・・・」(ローマ 14:17)
「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」(ローマ 15:13)
「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ・・・」(テサロニケⅠ 1:6)
人となられたイエスは、バプテスマのヨハネによって洗礼を受けられた時、聖霊を受けられて、聖霊を受けた最初のひととなられました。人間イエスは、私たち人間と同じ位置に立たれていて、地上での働きは宿っている聖霊によるものでした。
十字架の死と復活と父のもとに上げられて栄光をうけられ、神としての権威と力を持つお方に戻られました。
それでその後、イエスが聖霊を弟子たちに遣わされました。この聖霊を受けることは、聖化のめぐみと一体で切り離すことはできません。聖霊を受けることが聖化であり、聖化のめぐみに与った人は聖霊を受けたのです。
先に述べたように聖霊は自由と平安をもたらしますが、同時に喜びをもたらします。冒頭に掲げたみことばのとおり、イエスがそれを経験され、最後の晩餐の席で弟子たちにその喜びを与えると約束されました。そしてそれが実現していることを続けて掲げてあるみことばのうちにみます。
この喜びはときにはこころからあふれ出すようなこともありますが、平安同様、こころの底に静かにしかしどんな事態に遭遇しているときにも失われずにあります。神は私にもそうしてくださいました。
アブラハムは「完全でありなさい」と命じられましたが、全く普通に牛や羊を飼い、作物を植えて生活したのです。神はそういうアブラハムを完全でないとは言われませんでした。
同様に、私たちの聖化も、全く普通の生活をする中にあります。神はそういう私たちを聖くないとか完全でないとはいわれません。きよめの恵みは私たちが力まなくても普通の生活の中できよく活きさせてくださるのです。