同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— アコルの谷を望みの門としよう —


「わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門としよう。彼女が若かった日のように、彼女がエジプトの国から上って来たときのように、彼女はその所で答えよう。」(ホセア書 2:15)

 以前聖書通読で読んだところです。よく知っているみことばですが、神がなさる救いのみ業について考えさせられました。
 人は自分の罪を認めたがりません。「あなたは罪人ですか?」と問えば「はい罪人です」と答えがかえってきます。しかしその「はい」は、「私は罪をおかしました」と神の前に叫ぶようなものではありません。どんなひとでも「プライド」があって「私は罪をおかしました」といいません。行ったことの理由をいいます。そしてその理由は、その時の状況や、他の人の責任よって発生した物事です。 神の用意された救いの道をイエスは見事に示しておられます。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ 2:17)
 イエスはこうも言われました。「招かれる人は多いが、救われる人は少ない」と。罪を自分の責任でなく誰か他の人の責任にするので、救われる人が少なくなるのです。
 アコルの谷は罪を犯すとこうなるという見せしめの場所です。(ヨシュア記7章)
「イスラエルよ。お前を救うということは、わたしにとってこういうことだ。」
という内容を、預言者ホセアに実行させなさったのです。
「ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアにあった主のことば。主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。」そこで彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女はみごもって、彼に男の子を産んだ。
・・・主は私に仰せられた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。」そこで、私は銀十五シェケルと大麦一ホメル半で彼女を買い取った。私は彼女に言った。「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。」(ホセア書1:1-3:3)
「 わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。」(ホセア書14:4)
 罪のあるところに救いの門があります。