ショートコラムねだ
— イエスの奇跡を考察する —
「イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」」(マタイ 21:21-22)
ここに掲げたみことばの「いちじくの木になされたこと」は、イエスが実を食べたいと思って近づいたいちじくに実がなかったので「イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。」ことを引用されたのです。
繰り返し説明しているように、「イエスは真の人」となられました。「真の人」は「全く普通の人間」でなければなりません。そうでなかったら真の人でなくなります。つまり「半分神で半分人」のイエス像となってしまいます。
真の人イエスは、その生涯を「父のみこころ」に委ねられました。
イエスの神としての働きは、イエスに降られた聖霊によります。聖霊が父のみこころに従ってイエスを導き、父なる神のみ業をさせなさいました。
いちじくが枯れたのも、聖霊の働きです。それでイエスは、あなた方に「聖霊が降ったなら」わたしがしているのと同じ業が、あなたがたによってなされると言われたのです。
毎週礼拝に「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と信仰告白しているのに「奇跡を信じない」人がたくさんいるのは嘆かわしい事実です。彼らは、聖書の中に奇跡が記されていると、それを信じません。五つのパンと二匹の魚で、男だけでも五千人、それに女、子供もたくさんいたと考えられる群衆が満腹したイエスの給食の奇跡には、「みんなパンをもっていたのさ」などと言い出すのです。
起こり得ないことが奇跡です。「 預言者イザヤが主に祈ると、主はアハズの日時計におりた日時計の影を十度あとに戻された。」(列王記Ⅱ 20:11)
これが神の全能を信じない人々の間に議論が巻き起こる奇跡の事例です。
人間イエスは、父なる神に一切をお委ねしました。「 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ 2:8)
「神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。」(使徒2:24)
イエスの復活も、イエスが自分で甦ったのではなく、父なる神がなされた奇跡です。
創世記18章に神がこう言っておられます。
「主に不可能なことがあろうか。」