ショートコラムねだ
— 聖化と平安 —
「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(ヨハネ 14:27)
「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ 16:33)
救いの恵みに与った後、私は熱心にキリスト教に励みました。一年半のあいだに聖書全部を五回も読み、集会を休んだことは一度もありませんでした。集会で教えていただくだけでなく、たくさんの信仰書を読みました。それでも救われる以前の虚しさに戻ったわけではありませんでしたが、周りで主張されているような平安はありませんでした。
「彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒やし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」(エレミヤ書 6:14)
当時、文語聖書を使っていて、それには、「いいかげんに癒やし」は「浅く癒やし」となっていました。うわべだけは癒えても、内には傷、膿があるような感じで、私にぴったりあてはまりました。
当時はインマヌエル教団に所属していました。新年聖会、三月末に総会聖会、夏休みの時期に夏期聖会がありましたが、全部出席していました。夏期聖会であったと思いますが、アメリカからいらした講師の先生が聖会の説教をされ、終わって会場から質問を受け付けて答えていただく時がありました。質問は、ローマ人への手紙では六章にきよめが説かれているのに、どうして七章に律法がでてくるのでしょうか、というものでした。その先生の答えは、信仰によって救われたのにもかかわらず、きよめの段階になってまた律法を守る事によってきよめられようとするから悩みに戻っていくのです、ということでした。もちろんこの律法はモーセの律法ではなく、キリストがこうしなさいと命じられたことを意味します。
いいかげんな信仰生活をしている人は悩まないで、熱心な信仰生活をしている人が悩むようになります。私自身まだ救われて後、日が浅く、きよめの恵みをいただいていない時でしたが、その意味を理解しました。
私がきよめの恵みに与ることができないでいたのは、神のみこころに全く従うことができなかったためです。世のものに執着して、神よ、これだけは勘弁して下さい。他のものはなんでもみこころのままに、という状態でした。
「「悪しき者には平安がない。」主はそう言われる。」(イザヤ書 48:22)
救われて五年後、神のみこころに自分を明け渡すことができ、聖化の恵みに与ることができました。もっとも顕著なことは、「平安」でした。私はそれをイエスが最後の晩餐の時に約束された平安「キリストの平和」であると理解しました。その後多くの困難に遭遇し「涙の谷」を通りましたが、「キリストの平和」が失われることはありませんでした。キリストは「罪のため」に死なれた事が強調されますが、「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(イザヤ書 53:5)「平安のため」でもあります。
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。・・・彼の道を見たが、それでもわたしは彼を癒やす。わたしは彼を導いて、彼とその嘆き悲しむ者たちに、慰めを報いる。 わたしは唇の実を創造する者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼を癒やす。──主は言われる──」(イザヤ書 57:15,19)
キリストの贖いは、うわべだけの癒やしではなく「内なる人の癒やし」を与えてくださるものです。それが「平安」の理由です。
「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」(ヘブル 3:13-19)
私が神に自分を完全にあけわたすことができなかったのは、神は自分が願う以上のよいものくださる愛なるお方であるのですが、その神の愛を疑う「不信仰」が原因でした。
この文を読まれる皆さんにもきっとあてはまります。
「ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」」(ヘブル 3:7-8)
「御声を聞く」ことがスタートです。
先に恵みを受けた人々の「きよめ」「聖化」の証しを信じ、熱心にきよめを求めるなら、神はきっと「御声を聞かけてくださる」でしょう。
この平安の恵みは、救いの恵みと同様「神の業」によるもので「ひとの努力」によるものではありません。