同労者

キリスト教—信徒の志す—

回心物語

— ドワイト・L・ムーディ <靴屋での回心> —


<本コラムは「野の声|木田惠嗣のホームページ:40人の美しい回心物語:
("40 FASCINATING Conversion STORIES" compiled by SAMUEL FISK (Kregel Publications)の中から、適宜選んで、毎週の週報に連載翻訳したものです。)から許可をえて転載。

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      D・L・ムーディの名前は世界的に有名ですから、この著名人がどういう人物であったかを思い出すよう言う必要がほとんどない。ムーディはあらゆる方面から、近代史の中で、最も優れた伝道者であったと認められている。この高い評価は、いまだに減じていない。
     ムーディは、主に、牧師としての正式の訓練を受けていないし、按手も受けていないが、大きな教会と、シカゴでは最も良く知られた三つの学校と、夏期修養会センターと、出版社を建設した、伝道者として知られている。彼は、数度イギリス諸島に、伝道講演旅行をし、一つの集会で、ロンドンにのみ五ヶ月間滞在した。彼は、飛行機で旅行する以前の時代に、「1,000,000マイル以上の旅行をした」
    (New International Dictionary of the Christian Church) と言われる。
     ある資料は、「ムーディの福音説教者としての成功は、いかなる反対にも負けない不屈の勇気と、率直さと、活気、彼の奨めの熱心さの実である・・・」と示唆する(The Oxford Dictionary of the Christian Church)。別の資料は、ラジオの発達する以前の時代に、彼の奉仕には、‘いのちがあり、非常な影響力と人気と力があった。彼の奉仕を通して、数百万とまではいかなくとも、数千万人の人々がクリスチャンになった’と断言する。
    (Wycliffe Biographical Dictionary of Chruch)
     ムーディの義理の息子にあたるA.P.フィットの言葉を引用して、ムーディの前半生を語ろう。彼は、若い時代のムーディについて、次のように語る。「彼は、ボストンへ行き、ホームシックに罹り、また、仕事を探して全く見つからないという、つらい時があった。ついに、彼は、再び叔父に近づき、その様な状況であったので、彼らは、仲直りすることができた。彼は、教会へ行き、日曜学校に参加し、酒を飲まず、ギャンブルにも手を出さないと約束することを条件に、おじさんの店で雇ってもらうことになった。」  「ドワイトは、雑用係の店員になった。今や、彼の野心は、10万ドルを儲け、成功した商人になることに変わった。彼は、上品さと外見の欠けを、生来の機知と明るさで補い、低い立場から、セールスマンという店の顔になった。」
     「彼がボストンに滞在している間に、明確な霊的体験をした-彼の回心である。」 「教会に行き、日曜学校に参加することは、彼と叔父との約束に基づく義務であった。しかし、最初は、単なる形だけのものだった。熱心な洗練されたカーク博士の語り掛けは、若いムーディには、届かなかった。彼は、いつも、二階座席の最も目立たない席を選んで座り、一週間の激務で疲れて、日曜の礼拝の大部分を眠っていたと言われている。」
     「日曜学校では、エドワード・キムボールが教えるクラスに入った。先生が、彼に聖書を手渡し、ヨハネの福音書を学ぶといった。彼は、ヨハネの福音書を探して旧約聖書中を開いた。他の青年たち(その中には、ハーバード大学の学生が何人かいた)は、彼の無知を知って互いにつつき合っていた。先生は、彼の気恥ずかしさを悟って、その個所を開いてくれた。『私は、そこに親指を挿んで、最後までそうしていた。』『またその場所を開くことができるとは思えなかったからね。』とムーディはその時を回顧して語った。―この出来事は、彼の聖書に関する無知を示すばかりでなく、その失敗から学ぼうとする彼の不撓不屈の意志をも示している。」
     さて、次に、ウィリアム・ムーディの書いた彼の父の伝記から、ドワイトのさらに詳しい回心の実際を引用しよう。「ムーディは、キリストを明確に受け入れるまでは、神の御霊のわざである新生を体験することはなかった。理屈では、彼は、激怒をこらえることが出来ないのは悪いことであると知ってはいた。しかし、彼は、自分の自制心では、抑えられないことを知っていた。けれども、日曜学校では、彼の担当の先生は、次第に、この若者を神の救いのご計画の完全な知識に導き続け、ついに、彼と、特別な、個人的な会見をして、罪に打ち勝ち、神との平和の中に入るために、神が備えてくださったものを、受け入れるべきか拒絶するべきかかという、意志の決断をもたらした。その会見の機会は、決して偶然訪れたのではなく、このように、ドワイト・ムーディの回心に関わったキムボール氏が、注意深く、また、祈り深く、求めた結果訪れたものであった。」
     「私は、彼にキリストについて、また、彼の魂について語る決心をして、ホールトン靴店へと向かった。その店に近づいた時、私は、彼が仕事中であるその時間に、訪ねていくべきかどうか迷った。私が、あの少年を呼び出せば、きっと当惑するだろう、私が去った後で、他の店員から、私が誰であるかを聞かれ、私のしたことで、彼がなじられるのではないかと思った。とかくするうちに、私はその店を通り過ぎてしまった。その事に気がついて、私は、それを一気にやって、短い時間で終わらせてしまおうと決心した。私は、ムーディが、建物の奥の方で、靴を包んでいるのを見つけた。私は、すぐさま、ムーディに近づいた。そして、手をムーディの肩に置き、後で考えてみると、私は、キリストに代わって、あまり説得力のない嘆願をした。私はただ、彼に、キリストが彼を愛しておられ、キリストはその愛に帰るよう願っておられると語った。その青年は、その時、彼をめぐり照らした光にふさわしく整えられていたように見えた。そして、その場所で、ボストンの靴屋の奥で、彼は、彼自身とその生涯をキリストに明け渡した。」  「その時から、ムーディは、キリストを受け入れ、彼の全生涯が変わった。今までは、教会出席は、単なる義務でしかなかったのに、その時から、50年以上にわたって、彼は、神を礼拝することに、最上の喜びを見出すようになった。」
     「彼が口癖のように語った言葉によると、『回心する以前には、十字架に敵対して働いた。しかし、その時から、私は、十字架のもとから働きに遣わされた。それまで、私は、救われるために働いたが、今や、救われたので働いている。』」
     「40年後、ボストンで、説教をした時に、彼は、自分の回心が生涯に及ぼした影響をその様に語った。」
     「40年前、私が神を見出したその場所まで、私は、多分、石を投げることができる。私は、あなたがた若い人々の何人かでも、その同じ神のもとに導くために、少しでも役に立てばと思う。私が神のお役に立ったより100万倍以上も、神は、私によくしてくださってきた。」
     「私は、キリストを信じて、最初に、部屋から出てきたその朝のことを覚えている。私は、昔ながらの太陽が、今まで以上に輝いていると思った;その時、木の枝の小鳥たちが、さえずっていたが、まるで、鳥たちが皆、私に歌いかけているように思った。本当に、私は、鳥たちに恋をしてしまった。私は、まるで、すべての被造物に恋をしてしまったようだった。私は、もはや、どんな人に対しても、苦い思いを持たなくなったし、あらゆる人を受け入れる心の準備ができた。もし、人が、神の愛をその心に注がれなかったなら、決して生まれ変わることはできなかった。」
     「回心した後の若きムーディは、かつて、仕事に注いでいたのと同様の情熱と野心とを、神の御国のために抱くようになった。」
     もう一度、フィットの文章から、いくつかの言葉を引用として、結論としよう。「後年、ムーディ氏は、本当の新生を経験していないのに、教会員を自認する人々について、非常に気にした。そして、彼らが、本当に、神の性質を分与された者となったか、また、パウロとともに、彼らも、「私は、私の信じている方を知っている」と言う事ができるようになったかと、会う人ごとに、男性にも女性にも、この質問を投げかけた。」
     「キムボール氏は、『私の教会学校のクラスにやってきた時に、彼よりも、霊的暗黒状態にあった人を私は知らないし、また、彼ほど、クリスチャンらしくない人物が、明確なクリスチャンとなり、福音を受け入れ、なおかつ、社会的に広範な良い影響を与える事のできた例を知らない。』と記し、カーク博士と、教会の役員たちは、生涯、ムーディ氏が、私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識と奉仕とに、素晴らしい成長をしたことを、神に感謝した。」


    (ムーディーの生涯について知りたい方は、このホームページで、第43号(2003年5月号)、
  • 「ドワイト・L・ムーディーの物語」

  • を参照してください。)